2015年02月13日
日本政府のベトナム支援
注目すべき点が大量にある動画。
1968年、プレイク省を視察するグエン・バン・テュー総統御一行
(グエン・バン・テュー総統、グエン・カオ・キ副総統、第2軍団司令ビン・ロック中将(背が高い人)、そして在ベトナム日本大使)
映像の前半はプレイク省プレイメ中学校(Trường Trung học Plei Me, 日本で言う高校)への視察。学生服(白いアオザイ)を着た女学生たちが総統一行を拍手で出迎えています。一見よく見る光景のように見えますが、プレイメという土地柄、実は彼女達はベトナム人(キン族)ではないと僕は考えています。中部高原に位置するプレイク省は当時、まだキン族の入植が進んでおらず、人口の大半が少数民族のデガ(特にジャライ族)でした。彼女達がジャライ族であるという確証はありませんが、この後にCIDG部隊の映像が出てくる事からも、この視察は政府によるデガへの学校建設や軍への重用などデガとベトナム共和国政府の融和・団結をアピールする目的で行われた気がします。(ベトナムにおける一般的な学生服だからと言え、キン族の民族衣装であるアオザイをデガの女性に着させるのはどうかと思うけど)
後半はプレイク空港で行われた、第2軍団CIDG(越: DSCD - Dân Sự Chiến Đấu)部隊の閲兵式。ベオギュン(ベオガム)迷彩服の上に民族衣装着てるのは、おそらくMGF(Mobile Guerrila Force)。で、ザーコップ(タイガー)着てるのが第2戦術地区マイクフォース/MSF (II CTZ MIKE Force)。そして兵士達の背後にベトナム国旗と共にはためくのは、なんと日の丸です。飛行場に並べられた大量の木箱は全て日本政府から送られた医療支援物資であり、この一連の視察は在ベトナム日本大使も出席するベトナムと日本の親善行事でもあったようです。多分前半のプレイメ中学も、日本政府の支援で建設された物なのではないでしょうか。 式典ではまずベトナム軍幹部が大使に感謝を表明し、日本大使も何やらスピーチしていますが、音声は残っていないので内容は分かりません。また、1968年当時の在ベトナム日本大使は青木盛夫(1967-1968)および北原秀雄(1968-1970)の二名が居るんですが、この動画の人物がどちらなのかは分かりませんでした。

式典に集まったプレイク市民(多くがジャライ族)。横断幕に日本語で『永生友誼の日本‐越南』と書かれている。
1951年の国交樹立から1975年の国家消滅まで、日本政府はベトナム共和国に対し多大な援助を行っていました。それは第2次大戦における日本軍統治下での被害に対する賠償に始まり、以後ODA(政府開発援助)による物資・インフラ支援が長く続きました。また同国で15年間続いたベトナム戦争に対しては、日本は憲法上ベトナムへの派兵が不可能であり、武器輸出も出来ませんでしたが、むしろそれに直接抵触しない兵站・インフラ・民生分野ではアジア最大のベトナム共和国支援国でした。日本は米軍によるベトナム軍事支援物資の最大の生産国でもあり、CIDG部隊が着ている迷彩服や、ベトナム軍で広く用いられたキャンバスブーツなどの被服類は、かなりの割合で日本が生産していました。そして何より、在日米軍基地は極東地域に展開する米軍の最重要拠点であり、その世界最大の軍隊を支える大量の兵站を担う事が日米同盟における日本の役目でした。そして平時の在日米軍に加え、朝鮮戦争・ベトナム戦争という二つの戦争による膨大な物資・サービスの需要が日本の高度経済成長を大きく後押ししたのは間違いないでしょうね。
今日本の首相さんは、この自民党の伝統的な路線を更に拡大して、米軍以外の外国軍に対しても公に支援できるよう閣議決定しちゃいましたね。『非軍事分野に限る』という耳障りの良い言葉で国民を丸め込んだ気になってるんでしょうが、現在よりも限られた枠内で行われたベトナムへの支援ですら上記の有様だったわけです。つまりどんな形の支援であれ、アメリカと共に戦争状態や政情不安定な国への支援を行う事は、結局軍事支援になってしまうんだという認識は持っておくべきでしょうね。なお、僕はこの方針に全面的に反対している訳ではありませんが、反対意見を聞かないどころか、反対意見の出ないよう聞こえの良い言葉で国民を欺き、国会ではなく密室の閣議でこのような国家の重大事を内々に決めてしまう安倍晋三内閣を心から軽蔑しています。
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。