2019年08月31日
ベトナム共和国軍の女性軍人など
※2019年8月31日更新
※2024年9月21日更新
























ベトナム共和国軍の女性軍人(NQN)
※この記事では、日本語的な言い回しを優先して「女性軍人」、「婦人隊員、」「婦人隊」など言葉の使い分けを行っていますが、ベトナム語ではすべて「Nữ Quân nhân (NQN)」と表現されます。
①女性軍人の始まり
ベトナム共和国軍において、正式に女性軍人(NQN)の組織・制度が発足したのは1965年になります。
しかしベトナム人女性が軍に参加・協力する事自体はフランス連合時代(1948-1955)からすでに始まっていました。
1948年にベトナム国がフランス連合構成国として独立し、フランス植民地軍のベトナム人部隊を改編した国軍が発足すると、まもなくベトナムの共産主義化を防ぐため、一般のベトナム人女性もフランス連合・ベトナム国軍への協力を始め、軍の補助業務を担う婦人部隊が発足しました。

ベトナム国軍の女性補助隊員 [1952-55年頃]

ベトナム国軍の女性隊員と、部隊を指揮するフランス軍女性軍人 [1954年ハノイ]
ベトナムが1955年にフランス連合を脱退し、ベトナム共和国として独立宣言を行った後も、女性部隊は引き続きベトナム共和国軍において補助要員として軍務に就いていきました。
この頃フランス連合軍に参加した女性隊員たちが、後にベトナム共和国軍将校として、女性軍人の躍進を牽引していく事になります。
②婦人学校(1965年以降)
ベトナム共和国では徴兵制が施行されていましたが、兵役があるのは男性のみであり、女性軍人は全員志願者で構成されていました。
まず女性が軍に入隊すると、生活は男性兵士とは分けられ、サイゴン郊外に位置する婦人学校で新兵教育が行われます。ここでの女性新兵に対する教育は、軍における女性の躍進が進んでいる、アメリカ軍婦人陸軍部隊(WAC)のアドバイザーが全面的にバックアップする形で行われていました。

入隊と同時に婦人学校で軍服の支給を受ける女性志願者[1965年]
婦人学校における教育を記録した映像[1966年]
米軍とのコミュニケーション向上の為、米軍WACによる英語教育や、看護・社会福祉に関する教育内容が多かった模様です。

婦人学校では教練の一環として戦闘訓練も行われますが、実際に女性が戦闘部隊に配属される事はほとんどありませんでした。
(戦争末期の兵力不足の際も、兵役年齢引き下げにより16歳以上の男子が徴兵された一方、女性は最後まで前線には配置されませんでした)
③タイガー・レディー
おそらくもっとも有名なベトナム共和国軍の女性軍人が、「タイガー・レディー」の異名で知られる、陸軍第44レンジャー大隊の大隊最先任下士官ホー・ティー・クェー(Hồ Thị Quê)上士(曹長)だと思います。

米軍将校より米国大統領部隊感状(Presidential Unit Citation)を授章するクェー上士 [1965年]
ただし実際には、上で述べたとおり、ベトナム共和国軍では女性が戦闘部隊に所属する事はほとんどありませんでした。
クェー上士の場合は、夫のダン少佐が同第44レンジャー大隊の大隊長であった事から、夫婦で家族経営的な指揮体制を取っていたため、妻のクェーは下士官として昇進し、それがメディアに取り上げられて有名になっただけであり、このように女性軍人が戦闘部隊の指揮官になる事は極めて例外的なケースです。
(ちなみにクェー上士は1965年、夫のダン少佐に拳銃で撃たれ死亡します。ダン少佐はその後の取り調べで、自分の浮気がバレて喧嘩になり、はずみで撃ってしまったと供述していますが、実際には大隊長である自分よりも妻の名声が高まった事への嫉妬もあったのではと当時報道されていた模様です)
④後方支援
実際のベトナム共和国軍において、女性軍人が活躍する場として最も多かったのが、通信や需品などの後方支援部隊です。

パラシュートの梱包についてレクチャーを受ける需品部隊の女性軍人たち

海軍基地に勤務する女性下士官
徽章が異なるだけで、制服(勤務服・礼服)そのものは陸海空軍海兵隊どこに所属していても全女性軍人で共通です。

オーストラリア空軍機による空挺降下訓練に臨むベトナム陸軍空挺師団所属の女性軍人 [1966年ブンタウ]
こういった訓練は女性隊員にも行われましたが、あくまでマスコミ向けのパフォーマンス的な意味合いが強く、実際の彼女たちの任務は本部での事務作業や後方支援でした。
⑤厚生局

厚生学校の教官と学生 [1960年代末~1970年代前半]
厚生学校は総参謀部政治戦総局厚生局が所管する、女性のみが入学できる軍の士官学校であり、卒業後は厚生士官として、前線部隊の本部における支援業務、後方での傷痍軍人・遺族への支援や社会福祉など、厚生局の任務に当たります。

サイゴンの共和国総合病院で傷病兵の看護にあたる陸軍空挺師団所属の厚生士官 [1969年]
⑥婦人隊本部
①のフランス連合時代から軍務に就いている女性軍人たちはその後も軍における女性軍人の躍進・地位向上を牽引し、1965年の女性軍人制度開始後は、彼女たちは正式なベトナム軍将校として、軍の後方支援業務を担う重要な地位を占めるようになっていきました。全ての女性軍人を統括する婦人隊本部はベトナム共和国軍総参謀部の直下に置かれ、中でも最古参の女性軍人の一人、チャン・カム・フゥン(Trần Cẩm Hương)氏は、最終的に婦人隊本部司令官として陸軍大佐にまで昇進しました。

ベトナム女性軍人に関する参考サイト

ちなみに僕が去年、日光や富士山観光を案内したオーストラリア在住の人権活動家テレーズさんは、およそ40数年前、ベトナム軍の事務職員として日本に来日し、市ヶ谷の防衛庁で研修を受けたそうです。40年経った今も、上野公園でお花見した思い出は鮮明に覚えているそうです。また日本の桜をお見せする事が出来て僕も光栄でした!ベトナム国旗柄のマフラーはテレーズさんから僕へのプレゼントです(^ ^)
⑦民兵組織
正確には軍人ではありませんが、軍の指揮下にあった民兵組織には多数の女性が所属していました。

共和国少女団(Thanh Nữ Cộng Hòa)
第一共和国(ゴ・ディン・ジェム政権期)に存在した共和国青年団(Đoàn Thanh Niên Cộng Hòa)の女性部門です。共和国青年団はジェム総統とその弟ゴ・ディン・ニューが率いるカンラオ党(人格主義労働者革命党)が指導する政治色の強い民間武装組織であり、形式的には(ジェム総統が軍の最高司令官であるため)軍の指揮系統にありましたが、実質的にはカンラオ党の党軍でした。
その婦人部門である共和国少女団は、ニューの妻、チャン・レ・スアンを指導者とし、ベトナム人女性による反共運動として政治的なパフォーマンスを主に行っていました。
なお1963年11月の軍事クーデターでジェム政権が崩壊すると、共和国青年団・少女団は解体され、多くの隊員は後述の人民自衛団に編入されます。

準軍事婦人隊 (Phụ Nữ Bán Quân Sự)
こちらもジェム政権期に存在した女性による準軍事(民兵)組織です。上記の共和国少女団よりも軍の補助部隊としての性格が強く、ゴ・ディン・ニュー、チャン・レ・スアン夫妻の長女ゴ・ディン・レ・トゥイが幹部として準軍事婦人隊を率い、挙国一致の反共体制をアピールしていました。
なおこの組織も1963年のクーデター後に解体されましたが、軍の補助要員としての存在価値は高かったため、彼女たち準軍事婦人隊の組織を基に、軍は1965年に婦人隊(NQN)を正式に発足させました。

人民自衛団(Nhân Dân Tự Vệ)
終戦までベトナム全土で活動した、軍の指揮下にある民間防衛組織です。(人民自衛団本部は軍の総参謀部内に設置)
隊員の多くは男性でしたが、兵役で男性の少なくなった郷里を共産ゲリラから防衛すべく、銃後の守りとして女性も多く所属していました。
なおこの写真ではパレード用の礼装を着用していますが、実際の活動時は作業着として黒色のアオババ(所謂ブラックパジャマ)を着ている事がほとんどです。

農村振興委員(Xây Dựng Nông Thôn)
人民自衛団同様、郷里を共産ゲリラから防衛するための民兵組織ですが、人民自衛団に比べ、より人口の少ない農村部にのみ設置され、指揮権も地方行政府(もちろん地方政府も軍の指揮下にはありますが)が持つ地域密着型の自警団のような組織です。こちらも隊員の多くは男性でしたが、女性も少なからず所属していました。
また農村に設置される組織であるため、農民のシンボルである黒色のアオババが正式な制服でした。
※黒色のアオババ(ブラックパジャマ)=ベトコンなのはフィクション作品の中だけです。ベトナム人にとって黒アオババは単なる作業着なので、実際には政府側も黒アオババを着ている組織は多く、ベトナム共和国海軍にいたっては、正規の海軍軍人も作業着として黒アオババを着る事が多々あります)
⑧民間人協力者
「民兵」というほど組織化されたものではなく、基地・駐屯地で軍務に就く家族・恋人と共に生活していたり、自主的に軍に協力している民間人女性が軍服を着ている例はしばしば見受けられます。
政府軍やアメリカ軍等の基地内で通訳や秘書など「軍属」と言える仕事をしている女性も相当いたようで、中でも米海軍SEALに直接雇用された元ベトナム海軍の戦闘通訳員 グエン・ホアン・ミン氏の妻は、夫と共にSEALの指揮下でベトコンに対する情報収集活動(スパイ)を行っていたそうです。(過去記事『ベトナム海軍LĐNN/SEAL』参照)
しかし、全員が軍に雇用された正式な軍属という訳でもなく、給料ももらっていたり、いなかったり、人によってまちまちだったと思われます。

特にCIDG計画では村落そのものが国境防衛のための要塞化され、ベトコンからの村落防衛は全住民の生活の一部となったため、デガやチャム族などの村落=国境特殊部隊キャンプでは、女性も軍服を着用して村の警備に当たっている例が見受けられます。
番外編:軍装彼女(戦中コスプレ)
マニアの間でもよく誤解されているのですが、以下の軍服姿の女性たちの写真は、撮影されたのはベトナム戦争中で間違いないのですが、同時に高い確率で、正規の女性軍人ではないと私は考えます。
(民兵組織に所属している可能性は否定できませんが、少なくともそれは写真で着ている軍服とは関係ありません)






当時のベトナムでは、一般女性が軍務に就く男性への愛情表現として、写真館等で貸衣装(あるいはパートナーの男性軍人)の軍服を着て写真を撮り、家族・恋人に贈ることが流行していました。
正規の女性軍人と軍装彼女(戦中コスプレ)を見分けるポイントとしては、まず髪の長さです。正規の女性軍人は髪の長さが肩に掛からない程度と厳しく制限されており、長髪の女性軍人などまずありえません。
また長髪ではない場合でも、写真館で撮ったような綺麗な写真や、ヘルメットなどの野戦装備を身に着けているなど、通常の女性軍人ではまず見られないような写真の場合は、コスプレである可能性を疑うべきだと思います。
おまけ
「お前が軍服着る(男装する)なら俺は女装するわ!」と、男女で服装を入れ替えて記念写真を撮ったカップル。

二人とも生きててくれればいいな・・・
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