2019年10月29日
ベトナム空挺81名の遺骨 54年の時を経て米国ベトナム人墓地に埋葬
ベトナム戦争最中の1965年12月11日、4名の米空軍搭乗員および81名のベトナム陸軍空挺隊員を乗せた米空軍のC-123輸送機がベトナム共産軍の攻撃を受けて撃墜され、計85名の将兵が死亡しました。しかし墜落地点は南北両軍が断続的に戦闘を繰り返す激戦地であり、現地での遺品・遺骨回収が行われたのは墜落から9年後の1974年の事でした。
回収された遺骨は個人の特定が困難であったため一つの大きな保管箱に収められ、タイ バンコクの米軍JCRC(統合遭難者解決センター)に移送されます。その後、医学的調査によって4名のアメリカ人搭乗員分については遺骨が特定され、無事米国本土に戻され埋葬されました。
しかし残る81名のベトナム人兵士については、当時の米軍の飛行記録にベトナム軍部隊に関する詳細な記録が残っていなかったこと、また1975年にベトナム共和国政府が消滅し、確認すべき資料も散逸してしまっていたことから、この兵士たちが「ベトナム陸軍空挺師団所属者」である事以外は不明なままでした。
その後、彼らの81名の遺骨は1986年に米国ハワイ州の米軍捕虜・行方不明者調査機関 JPAC(統合捕虜・不明者対策コマンド)に送られます。以後、米国政府は遺骨を彼らの故郷ベトナムの地に返すべく、ベトナム共産党政府に対し二度も遺骨の返還を申し出ましたが、今もなお旧南ベトナム軍人を売国奴と宣伝し迫害し続ける共産党政府は、二度ともこれを拒否します。さらに遺骨はアメリカ軍人ではないため米軍墓地に埋葬する事も出来ず、81名の遺骨は忘れ去られた存在として33年間もハワイで保管されつづけました。
事態が動いたのは墜落から52年後の2017年でした。いくつかの米国メディアがハワイに保管されていたこの遺骨を「国の無い兵士」として取り上げた事をきっかけに、在米ベトナム人コミュニティーが遺骨の存在を知り、その埋葬に関して米軍との交渉を開始します。その結果、遺骨はカリフォルニア州オレンジ郡のウェストミンスター市・ガーデングローブ市にまたがる世界最大のベトナム人街=リトル・サイゴンにあるベトナム人墓地に埋葬される事が決定し、遺骨が納められた箱は2019年9月に米空軍機によってハワイからカリフォルニアに移送されました。
Photo: USA TODAY Soldiers without a country: We're finally honoring South Vietnamese who fought with us
そして去る10月26日、米軍・在米ベトナム人コミュニティー合同の埋葬式典がリトル・サイゴンのベトナム戦争記念碑前で執り行われました。
Photo: Hoa Pham / Facebook
米軍の調査では、彼ら81名の所属は「空挺師団」という所までしか分かりませんでしたが、在米ベトナム人コミュニティーは元ベトナム軍人のネットワークを通じて独自の調査を行い、より詳細な所属は空挺師団の「第7空挺大隊 第72中隊」であった事を突き止めました。
DNA検査による確実な個人の特定までには至らなかったものの、こうして所属部隊が判明した事で、行方不明となった時期と照らし合わせ、その遺骨の中に自分の家族が居るはずと、式典では故人の遺影を手に参加する元ベトナム難民の姿も見られました。
こうして彼ら第72中隊81名の兵士たちは、その死から54年の時を経て、ついに自分たちを迎えてくれる同胞の住む街で、彼らの祖国への奉仕、そして犠牲への感謝と共に埋葬される事が叶ったのでした。
一方、かつて戦場となったベトナム、ラオス、カンボジア(特に山岳地帯)の地中には、まだまだ大量の兵士や民間人の遺骨が、誰にも知られる事なく埋まったままでいます。そういった人々と比べると、今回の81名はまだ幸運だったと言えるかもしれませんが、そんな彼らでさえ、埋葬されたのは生まれ故郷から1万2000km以上離れた異国の地です。
残念ながら彼らベトナム軍人が命がけで守ろうとした祖国ベトナムとベトナム国民は、今日においても依然、ベトナム共産党による恐怖政治と中国による間接支配の下にあります。
いつの日か彼らの霊が浮かばれる事を願って、これからも私はベトナムの歴史をリアルタイムで見つめ続けます。
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