2024年01月28日
クメールとベトナムの同盟
※2024年9月28日更新






カンボジア(クメール王国)は1960年代を通じて、ベトナム戦争に対し「中立」を表明し直接戦闘には関与しない一方で、ベトナム共産軍がカンボジア領内を通行・拠点(ホーチミン・トレイル)とする事を許可し、またFULROによる反乱を支援するなど、ベトナム共和国(南ベトナム)に対する間接的な攻撃を続けていました。
しかし1970年にクメール軍のロンノル将軍がクーデターで政権を掌握すると、ロンノル政権(クメール共和国)はアメリカを盟主とする反共・西側陣営に転向し、同時に国内外の共産軍(クメールルージュおよびベトナム共産軍)との戦争に突入します。これに伴い、クメール共和国は共産軍を打倒するため、一転してベトナム共和国と同盟を結ぶ事となります。
この同盟は両国共にアメリカの傘下に入ったからこそ成しえたもので、両国の千年に渡る対立の歴史を鑑みると、これは非常に驚くべき出来事でした。
そもそもベトナム人国家は現在のベトナム北部(紅河流域)から始まり、そこから千年以上かけて徐々にクメールおよびチャンパ王国(チャム族)から領土を奪いながら南に拡張していった国でした。

なのでクメール人にとってベトナム人は侵略者であり、現在のベトナム南部は18世紀にベトナム人に奪われるまで約800年に渡ってクメール人が支配していた土地、すなわち「奪還すべき自国の領土」でした。
そのためクメール人の間には強い反ベトナム感情が存在しており、それは1970年に起ったクメール軍による在カンボジア・ベトナム人虐殺事件の背景にもなりました。
(同様にチャム族やデガもベトナム人に征服された人々で、これが現在まで続くFULRO運動に繋がります)
しかし、こうした対立の歴史がありながらも、1970年のクメールとベトナムの同盟成立以降は両国の軍が歩み寄り、かなり親密な関係になります。
それまでクメールは中国・ソ連から細々と軍事物資を輸入していましたが、ベトナム戦争には参戦していなかったため、軍の規模も装備も、また能力的にも周辺国と比べるとかなり遅れていました。(周囲のベトナム、ラオス、タイはアメリカからの強力な軍事支援を受けていた)
そこで1970年にクメール共和国が成立すると、クメール軍は自国の兵士の訓練を、実戦経験も訓練設備も豊富なベトナム軍とタイ軍に頼るようになります。そして多くのクメール兵がベトナム領内で訓練を受けた後、クメールルージュとの戦闘に投入されました。

▲ベトナム軍訓練センターで訓練中のクメール軍新兵 [1970年ベトナム・フクトゥイ省]

また同年、ロンノル政権の承認の下、ベトナム軍がホーチミン・トレイルを叩くためクメール領内に進攻(カンプチア作戦)を開始すると、ベトナム軍とクメール軍は連携して作戦を行い、共産軍に大打撃を与えることに成功します。

▲クメール軍第2軍管区本部で合同で指揮を執るクメール軍・ベトナム軍将校[1970年カンボジア・コンポンスプー]
顎に手を当てている人物がクメール軍第2軍管区司令ソーステン・フェルナンデス将軍で、ベレーを被った2人がベトナム軍将校。
フェルナンデス将軍は当初シハヌーク派と見做されロンノル将軍のクーデター時に失脚しかけますが、後にロンノルの信頼を得て1972年からはクメール軍総参謀長を務めます。
こうした協力関係から、両国の将校の中には、互いの階級が認識できるよう、相手国の階級章を身に着ける例も一部で見られました。

▲右襟にベトナム軍大佐の階級章を佩用するクメール軍大佐

▲左肩にクメール軍少佐の階級章を佩用するベトナム軍少佐(第1歩兵師団チャン・ゴック・フエ少佐)
しかし、この同盟は1975年に両国とも共産主義勢力に敗北した事で消滅します。
一方、同様にベトナム戦争中は同盟関係にあった共産主義勢力、すなわちベトナム労働党とクメールルージュ(カンボジア共産党)も、戦争が終結した事で互いに利用価値を失い、終戦の翌週には同盟を反故にして局地的な戦闘状態に入ります。
そして対立はエスカレートし、1978年のカンボジア・ベトナム戦争に発展。この戦争はベトナム側の勝利に終わりましたが、その後もベトナムが擁立したカンプチア人民共和国(ヘン・サムリン政権)とカンボジア駐留ベトナム人民軍に対し、カンボジア領内に残存する反ベトナム勢力は10年に渡って武力闘争を続ける事となります。
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