2013年10月18日
NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[1]
※2022年10月22日更新
特殊作戦のはじまり(1956~1963年)
1956年2月、ベトナム共和国総統ゴ・ディン・ジェムは、かつてフランス軍の特殊部隊である第11強襲空挺大隊が設立し、ジュネーブ協定後はニャチャンに移転していたGCMA(混成空挺コマンドグループ)のコマンド学校を、編成が待たれる南ベトナム軍特殊部隊の訓練センターとして再建するよう命じた。これを受けて米軍MAAG(軍事支援顧問グループ)の支援の下、最大100名に体力練成・コマンド訓練を施せる大規模な訓練センターが建設された。このニャチャン訓練センターはベトナム共和国軍総参謀部・研究教育局(Nha Tổng Nghiên Huấn)の管理下に置かれた。
1956年末、ジェム総統は米国CIAの要請により研究教育局を解隊し、新たに南ベトナムの情報戦・防諜戦略を担う情報機関"社会政治研究局(SEPES)"を設立した。SEPESはチャン・キム・トュエンを局長とし、フエの他、国外のビエンチャン、プノンペン、バンコク、クアラルンプール、シンガポールにも支局を有した。また、その人員の採用、コマンド訓練を行う"総統府連絡部(Sở Liên lạc Phủ Tổng thống)"も設立され、CIAより資金・作戦の支援を受けて活動を開始した。総統府連絡部は、総参謀部の指揮系統に属さないジェム総統直属の機関であり、研究教育局司令・副指令だったレ・クアン・タン中佐とチャン・カク・キン大尉(当時)は新たに総統府連絡部司令・副指令に任命された。タン中佐は南ベトナム軍空挺将校であり、同時にジェム総統の熱烈な支持者であった。また同部のメンバーの多くは、北ベトナム領内での活動を考慮してベトナム北部出身者が選ばれた。
1957年初頭、ジェム総統は対外秘密工作の実行部隊の創設を命じ、ブンタウで70名の総統府連絡部の将校・下士官に対し空挺降下・諜報活動の訓練が開始された。その後、58名がニャチャンにおいて、MAAGのグリーンベレー機動訓練チーム(Mobile Training Team)が指導する4ヶ月間のコマンド訓練コースを受講した。訓練を終えた彼らは1957年11月、ニャチャンにおいて南ベトナム初の特殊部隊、第1観測隊(Liên đội Quan sát Số 1)として組織された。
1958年中も隊員の数は増加し続け、部隊は第1観測グループ(Liên Đoàn Quan sát Số 1)へと改称された。12月には隊員数は約400名に上り、北ベトナムが侵攻してきた際に正規軍の背後で活動する反共工作部隊として期待されたが、反面彼らは総統直属という特権的な地位に増長し、危険を伴う出動を忌避することが多くなった。
同年、総統府連絡部内に新たに"地理開拓部(Sở Khai thác Địa hình)"が発足し、この第1観測グループを所管した。地理開拓部は国内および北ベトナムに対する諜報・破壊工作を目的とし、北ベトナムに対する工作活動を北方マンド(Sở Bắc)(指揮官ゴ・テー・リン大佐)が、南ベトナム国内における活動を南方コマンド(Sở Nam)が取り仕切った。
▲ゴ・テー・リン大佐
総統府連絡部(地理開拓部)北方コマンド司令(1959~1963年)
SKT沿岸警備部司令(1964~1965年)
SKT/NKT副司令(1965~1970年)
NKT作戦部司令(1970~1972年)
NKTイェンテー訓練センター司令(1972~1975年)
1960年に南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が結成されると、南ベトナム政府にとって目下の脅威はベトコンとなった。そして第1観測グループはそれまでの後方任務から外され、ベトコン出没地域に直接投入される事となった。作戦はメコンデルタのベトコンに対して行われ、その後はラオス国境沿いを活動範囲とした。
1961年半ば、第1観測グループは15人編成のチームが20個、計340名が所属しており、さらに人員を805名まで拡大する計画であった。10月には南ベトナムへ軍事物資を輸送する北ベトナム軍の回廊ホーチミントレイルを偵察するため、ラオス領内での作戦も開始された。
同年、彼らの特殊作戦を指導・支援してきた米陸軍グリーンベレー第77特殊部隊グループ(77th SFG)が第7特殊部隊グループ(7th SFG)へと再編されたことから、第1観測グループは77th SFGに敬意を表し、77という部隊番号を引き継ぎ第77グループ(Liên Đoàn 77)へと改称した。その後2年間、第77グループは定期的に北ベトナム、ラオスに潜入して破壊工作や心理戦作戦を実行した。作戦は長期間に渡り、エージェントのみならず同グループの支援に派遣された民間人も北ベトナム領内に降下した。また1963年2月には、地理開拓部内に新たに第77グループの姉妹部隊、第31グループが編成された。
▲第77、第31グループ部隊章
▲北方コマンド チーム"ブル(Bull)"(1961年)
米軍MAAG軍事顧問の姿が見える
▲北ベトナム領内に侵入して武器人員を搬送するC-46輸送機(1961年)
▲対北潜入チームのリスト。
1961年から67年まで、50以上のチームが北ベトナム領内に潜入して諜報・破壊工作を行った。
一方、1961年には総統府連絡部内に、海軍LDNN(UDT部隊)とは一線を画す、潜入作戦専門の水中工作部隊"シーコマンド(Biet Hai)"が編成され、北ベトナムに対する水陸作戦の任務を与えられた。アメリカ海軍SEAL作戦チームは1962年2月から南ベトナムへの展開を開始し、翌3月から最初のシーコマンド幹部に対し6ヶ月間の空挺・偵察・対ゲリラ戦の教練コースを開始した。そして10月までに62名が第1期コースを修了したが、第2期の計画は予算不足のため中止となった。
この間、SEPESは1960年に発生したクーデター未遂事件を予見できなかった責任を問われ、規模を縮小された。さらに1962年のクーデター未遂事件では、二名の空軍パイロットが独立宮殿(総統府)を爆撃する事態に至ったことから、ジェム総統はSEPESを解散し、局長のチャン・キム・トュエンをエジプト総領事に左遷した。
1963年初頭、地理開拓部は軍の指揮系統をも超越した特権的な体制から、まるで"近衛兵"のようだと国内で批判を浴びていた。ジェム総統はその批判をかわす為、3月15日に地理開拓部およびその傘下の第77、第31グループを陸軍特殊部隊(LLDB)司令部に編入させた。しかしLLDBを創設、指揮していたのは総統府連絡部司令タン大佐であり、実態は何も変わらず、北方コマンドは引き続きLLDB司令部の部局として対北工作を継続した。
1963年8月、LLDBは仏教徒によるジェム政権への抗議運動を制圧するため、南ベトナム全土で仏教寺院を襲撃した。この際LLDBは正規部隊だけでなく、政治作戦を実行するジェム総統シンパの"民間人"運動家も3個中隊動員し、仏教徒に対し凄惨な暴力が振るわれた。このような作戦は軍内部にもLLDBに対する反感、侮蔑を招き、同年11月にクーデターが発生すると、ジェム総統の側近であったタン大佐は総統もろとも処刑された。
その後、特にタン大佐の影響が強かった北方コマンドはLLDBおよび総統府から切り離され、1964年に総参謀部(BTTM)の直接指揮下の新組織"開拓部(Sở Khai thác (SKT))"へと再編された。SKT初代司令官にはチャン・バン・ホー大佐が就任し、以後対北工作はSKTが実施していくこととなる。
つづく・・・
Posted by 森泉大河 at 02:10│Comments(4)
│【ベトナム共和国軍】│NKT/技術局│LLĐB/特殊部隊│【アメリカ】│SF/グリーンベレー│SOG/特殊作戦│CIA/中央情報局│1954-1975
この記事へのコメント
自分もLLDB好きなんです。
Liên Đoàn 77の由来は77th SFGなんですね!
単なる偶然かと思ってました。
続きを楽しみにしてます。
Liên Đoàn 77の由来は77th SFGなんですね!
単なる偶然かと思ってました。
続きを楽しみにしてます。
Posted by Oscar at 2013年10月20日 15:50
>Oscarさん
恥ずかしながら、77thSFGの存在を忘れてました。Oscarさんに指摘され、今気付いたところですw
77thSFGが由来でまず間違いないと思うので、本文を訂正しておきました。
助かりました、ありがとうございます!
恥ずかしながら、77thSFGの存在を忘れてました。Oscarさんに指摘され、今気付いたところですw
77thSFGが由来でまず間違いないと思うので、本文を訂正しておきました。
助かりました、ありがとうございます!
Posted by タイガ at 2013年10月20日 20:29
今晩は、%です。
ゴ・ディン・ジェム排除とLLDBの大統領府切り離しは
ケネディ大統領とCIAの判断ミスと言わざる得ません。
確かに、マダムヌーはインタビューで「僧侶の焼身自殺は
共和国転覆を図る共産ゲリラとそれを支援する北ベトナム
と中ソ(中共国とソ連)のプロパガンダンです」といえば良かったですね。
もし、ケネディとCIAがあの時、ジェム一族を排除せず、そのままLLDBが
活躍出来てれば、南ベトナムが北ベトナムに勝利し、逆に白色統一
果たしていたかもしれません。
(面白くないコメントでスミマセンでした)
ゴ・ディン・ジェム排除とLLDBの大統領府切り離しは
ケネディ大統領とCIAの判断ミスと言わざる得ません。
確かに、マダムヌーはインタビューで「僧侶の焼身自殺は
共和国転覆を図る共産ゲリラとそれを支援する北ベトナム
と中ソ(中共国とソ連)のプロパガンダンです」といえば良かったですね。
もし、ケネディとCIAがあの時、ジェム一族を排除せず、そのままLLDBが
活躍出来てれば、南ベトナムが北ベトナムに勝利し、逆に白色統一
果たしていたかもしれません。
(面白くないコメントでスミマセンでした)
Posted by % at 2014年11月07日 21:58
>%さん
真面目なコメントありがとうございます。
ジェム政権転覆後の軍事政権の混迷は、CIAにとっても大きな誤算だったでしょうね。不安定な政局と国民の政府への失望が共産側に有利に働いたことは間違いないですね。
ただ、1963年のクーデターの背景には、CIAの支援があったとは言え、元々軍部が持っていたジェム大統領への反感も大きかったようです。1955年にはジェムは軍幹部を反乱容疑で粛清しようとしてますし、その後も自分に従うカトリック教徒の軍人ばかりを出世させて、仏教徒の軍人は閑職に追いやられたという話もあります。
独立や経済発展などジェム大統領の功績は大きいですが、同時に国内に敵を作りすぎて共産側に付け入る隙を与えてしまった時点で、政権の運命は決まっていたのかもしれません。
当時LLDBが行っていた任務は1964年以降NKTおよび米軍SOGに引き継がれて、ジェム政権期よりもずっと大規模に実行されましたが、結局北の背後にいる中国・ソ連を抑える事は無理でしたね。統一となれば、それはもう冷戦そのものが終わる時で無いと不可能ではないでしょうか。
真面目なコメントありがとうございます。
ジェム政権転覆後の軍事政権の混迷は、CIAにとっても大きな誤算だったでしょうね。不安定な政局と国民の政府への失望が共産側に有利に働いたことは間違いないですね。
ただ、1963年のクーデターの背景には、CIAの支援があったとは言え、元々軍部が持っていたジェム大統領への反感も大きかったようです。1955年にはジェムは軍幹部を反乱容疑で粛清しようとしてますし、その後も自分に従うカトリック教徒の軍人ばかりを出世させて、仏教徒の軍人は閑職に追いやられたという話もあります。
独立や経済発展などジェム大統領の功績は大きいですが、同時に国内に敵を作りすぎて共産側に付け入る隙を与えてしまった時点で、政権の運命は決まっていたのかもしれません。
当時LLDBが行っていた任務は1964年以降NKTおよび米軍SOGに引き継がれて、ジェム政権期よりもずっと大規模に実行されましたが、結局北の背後にいる中国・ソ連を抑える事は無理でしたね。統一となれば、それはもう冷戦そのものが終わる時で無いと不可能ではないでしょうか。
Posted by タイガ at 2014年11月08日 02:13
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