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2016年09月19日

ベトナム華人と三合会

今週末のベトベトマニアの年代設定は1966年なので、勉強がてらこの年に起こったある事件を取り上げてみます。

出典: AN NINH THẾ GIỚI記事
Hội Tam Hoàng và vụ xử bắn Tạ Vinh: Nhiệm vụ bất khả thi


米価高騰とタ・ヴィン逮捕

 1966年元旦節の直後、南ベトナムにおいてキロ5ドンだった米の流通価格が突然6ドン、7ドンへと高騰し、当時の肉体労働者の日当8ドンに迫ろうとしていた。政府による捜査の結果、サイゴンの華人街チョロンで『無冠の王』と呼ばれる男の存在が浮かび上がった。事態の解決に当たったグエン・カオ・キ首相(当時)はすぐさま、ベトナム南部で米の貿易を一手に担う華人(ホア族)系通商ギルドの7名を召喚し、最後通牒をつきつけた。
 間もなくキ首相は今回の価格高騰はその中の一人タ・ヴィン(Ta Vinh)の陰謀によるものだと結論し、タ・ヴィンを逮捕し、直ちに死刑に処す決定を下した。しかし、タ・ヴィン逮捕後も米の価格高騰は続き、キロ7.5ドンに上昇した。
 マ・チェン(Mã Tuyên)らチョロンの華人通商ギルドの幹部5名は、身内のタ・ヴィン処刑を回避するため緊急会合を行った。その会議の数時間後、7.5ドンだった価格は約半分の4ドンに低下した。しかしキ首相は、タ・ヴィンの処刑を取りやめる事は無かった。

ベトナム華人と三合会
(写真左: タ・ヴィン 1966年, 写真右: マ・チェン 1963年)



ベトナム華人と国際華人ネットワーク
 
 キ首相がタ・ヴィンの処刑を強行した背景には、ベトナム経済に強い影響力を持つベトナム華人勢力、そして香港を拠点とする国際華人マフィア『三合会』の存在があった。元々タ・ヴィンやマ・チェンなどのベトナム華人通商ギルドは三合会の一員であり、チョロンは長らく三合会の強い影響下にあった。
 また彼らはかつてゴ・ディン一族の独裁政権に取り入り、ベトナム国内の商貿易、そして麻薬取引を独占し莫大な利益を得ていた。しかし1963年11月1日に発生した軍事クーデターにおいてゴ・ディン・ジエム政権は崩壊し、クーデターの際にゴ・ディン兄弟を匿っていた華人ギルド幹部は新たに発足した軍事政権からの追及から逃れるためカンボジアに逃走せざるを得えなかった。


サイゴンで発生した軍事クーデターとゴ・ディン兄弟暗殺を報じる米国CBSニュース [1963年11月]

 こうして全財産を失ったタ・ヴィン、マ・チェンらであったが、この時点でも国際的な華人ネットワークの力は強大であり、タ・ヴィンらは三合会および台湾の国民党政権から2億ドンの資金提供を受け、再びチョロンに舞い戻っていた。この資金提供の裏には、台湾・香港の華人ネットワークを通じてベトナムで強い影響力を持つの華人勢力を操作し、南ベトナム政府をコントロールしようとするアメリカCIAの工作があったとも言われる。
 折しも、1964年から1965年にかけてサイゴンでは軍高官同士のクーデターが乱発しており、政情は混迷を極めていた。その中で資金と組織力を持つ華人ギルドは瞬く間に勢力を取り戻し、1965年には南ベトナムにおける米貿易の80%、食品業界の78%を掌握するに至った。


グエン・バン・チュー政権

 しかし、1965年に政権を獲得したグエン・バン・チュー将軍、グエン・カオ・キ将軍らは、南ベトナムの政治・経済に多大な影響力を持つ華人勢力を危険視した。この二名の若い将軍は米国政府からの支援を受けてグエン・カン将軍勢力を排除し新たに政権に就いた。しかしアメリカの公認があるとは言え、国内における政権の権力基盤は未だ安定しておらず、敵対勢力への警戒は予断を許さない状態だった。
 そんな中、ベトナム経済に深刻な打撃を与えかねない米価高騰が発生したことで、チュー政権は米貿易を独占する華人勢力に対し強い危機感を抱いた。そして政府はこれを機に華人勢力・三合会の弱体化を図り、タ・ヴィンの処刑を強行した。米の価格操作はタ・ヴィン個人によるものではない事は明らかであり、この処刑は華人社会全体に対する見せしめであった。
 台湾政府、三合会はこれに強く反発し、キ首相と以前から親交のあった台湾空軍司令官 徐煥升(シュー・フアンション)二等上将が直接処刑の中止を求めた。また三合会は人員を総動員して公正な裁判を求める嘆願書を集め、台北のベトナム共和国大使館に提出した。しかし処刑の決定が覆る事はなかった。
 1966年3月14日、チョロンから程近いベンタイン市場フランス語学校裏の処刑場にて、移動裁判所がタ・ヴィンに死刑を宣告した。当時サイゴンの人口の約30%は華人系であったことから市民による大規模な抗議デモ・暴動が予想されたため、政府側は警察・憲兵隊に加えて空挺部隊1個大隊を配置し、厳戒態勢の下で銃殺による公開処刑が行われた。
 


 1955年にジェム政権が20世紀最大の犯罪組織『ビンスエン団』の討伐を行った際はサイゴン市内で大規模な市街戦が発生したのに対し、この1966年の事件の後に三合会が政府に対する破壊活動を行ったという記録は見受けられません。しかし政府が恐れるほどの影響力を持っていた事は確かであり、戦争という混沌とした社会と大金の動く状況の中で、三合会、そしてベトナム華人がどのような役割を果たしたのかについては私としても非常に気になるところであり、今後も調べていきたいです。




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この記事へのコメント
ビンスエン派の話は「ベトコン・メモワール」にも出てきましたね。

そういえば、チョロンのビンタイ市場か中央のベンタイン市場かは微妙なところでにはありますが、ホテルニッコーサイゴンの高層階から街を見下ろすと、「映画・ラマン」で有名な、レーホンフォン女学校が見えます。
その向かいに監視塔付きの収容所らしきイカツイものが見えるんですよね。
今でも監視人が配置されています。

北ベトナムの兵隊のお給料は5ドンだったそうで。当時は「5ドン兵士」と呼ばれていたそうです。

私もベトベトマニアに参加します。
Posted by 連続射殺魔 at 2016年09月21日 22:12
連続射殺魔さん

恥ずかしながら『ラマン』という映画を今まで知りませんでした。
ストーリーだけ読みましたが、植民地に住み下働きするフランス人よりも、華人商人の方がはるかに裕福というのは、いかにも当時のサイゴンっぽいですね。
戦前のベトナムものとしては『インドシナ』も見なくてはと思いつつ、DVDの値段がなかなか下がらないのでまだ手にしていません...

当時の北ベトナム・ドンのレートが分からないのですが、ジリ貧であった事は想像に難くないですね^_^;
南ベトナム軍では兵卒の給料が月給1200ドン、地方軍が月給900ドンだったという記述を見た事があります。
しかし経済成長真っ只中なので物価も上がり続けており、彼らも生活は決して楽ではなかったようです。
月給900ドンでは家族を養うのには不十分で、多くの地方軍兵士がアメリカ政府による食糧支援事業から米と食用油の配給を受けていたそうです。
ただし政府としても兵隊が仕事しなくなると困るので、扶養者数に応じた減税や食料品の免税販売、子供の学費補助など、福利厚生に力を入れていた様子が、最近調べるうちに分かってきました。

続きはベトベトマニアでお話ししましょう^ ^
Posted by タイガタイガ at 2016年09月22日 11:39
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