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2018年05月08日

ディエンビエンフー陥落から64年

※2018年9月2日追記

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 5月7日は第一次インドシナ戦争(1946-1954)の雌雄を決した『ディエンビエンフーの戦い』が終結した日という事で、今回は日本ではほとんど正しく理解されていない第一次インドシナ戦争の構造とディエンビエンフーの戦いに散ったベトナム軍空挺部隊についてご紹介します。



第一次インドシナ戦争の背景と構造

 16世紀以降、他のヨーロッパ諸国と同様に海外領土の獲得に邁進したフランスは、世界各地で侵略と戦争を繰り返しながら支配地域を拡大し、19世紀にはイギリスの『大英帝国』と双璧を成す、『フランス植民地帝国』と呼ばれる勢力圏を構築するに至ります。その最終段階でフランスは1860年代から東南アジアに進出し、ベトナム(大南国)、ラオス(ヴィエンチャン王国・ルアンパバーン王国・チャンパーサック王国)、カンボジア(カンボジア王国)を相次いで征服して1893年にフランス領インドシとして統合します。
 しかしその50年後、第2次世界大戦によってフランス本土が荒廃した事で、終戦後フランス政府は本土の復興を最優先せざるを得ず、それまでのように植民地に膨大な資金と人員を投入して完全なコントロール下に置くような政策は実行不可能になっていました。そこでフランス政府は、1945年にベトナムで発生した八月革命ような独立運動の発生を抑制し、支配体制を維持し続けるために、世界各地のフランス植民地に対して一定の地位と独立性を認め、それと引き換えにフランスの勢力内に留まらせる新たな枠組みを1946年から開始します。それがフランス共和国およびその植民地・保護領で構成された共同体『フランス連合(Union française)』です。
 時を同じく、第二次大戦終結後再びインドシナを占領したフランスの打倒を目指すベトミンは、フランス植民地政府およびフランス軍への攻撃を激化させており、後に第一インドシナ戦争と呼ばれる武力闘争を拡大していました。そこでフランスは1948年に、仏領化以前から続く阮朝大南国の第13代皇帝バオダイ(Bảo Đại)を国家元首とする新たなベトナム人国家『ベトナム国(Quốc gia Việt Nam)』を擁立し、フランス連合の枠内で独立国としての地位を認める事で反仏闘争の鎮静化を図ります。同様に、ベトナムと共にインドシナ連邦を構成していたラオスとカンボジアも、それぞれラオス王国・クメール王国として独立し、フランス連合の構成国となります。
 しかしこの『独立』はフランスの勢力下である事を前提に、ある程度の自治を認める保護国としての地位を与えたに過ぎず、ベトミンはベトナム国政府をフランスの傀儡政権と見做し、ソビエト連邦および中国共産党からの軍事支援を受けながらフランス連合軍の駆逐、およびベトナム国政府の転覆を目指して共産主義政権を樹立するためのテロ・戦争を強行していきます。
 一方、ベトナム国やラオス、カンボジアの諸政府は、経済的にも軍事的にも国家としての発展が大きく遅れている現状では、当面はフランスの勢力下に甘んじるとしても段階的な独立の道を模索する他ありませんでした。また国民の間でも、最終的には独立が悲願であるものの、一方でベトミンによる同族へのテロを目の当たりにした事でホーチミンの共産主義政権は絶対に阻止しなくてはならないという考えは次第に広がり、フランス連合の方針に同意する国民の後押しもあってベトナム国はフランス連合の一員としてベトミン掃討に大きな役割を担っていきます。


フランス軍の7割がインドシナ人兵士

 このように第一次インドシナ戦争とはフランス連合諸国とベトミンとの戦争であるため、この戦争における『フランス軍』という言葉は、必ずしもフランス共和国の国軍たるフランス軍(Forces armées françaises)だけを指すものではありません。第一次インドシナ戦争における『フランス軍』とはフランス連合軍、つまりインドシナ平定を目的に組織された極東フランス遠征軍団(CEFEO)』を意味しますが、このCEFEOはフランス軍(陸海空軍・植民地軍)に加えて、ベトナム国軍・ラオス国軍・カンボジア国軍というインドシナのフランス連合諸国軍で構成されていました。
 さらにフランス軍内の植民地軍にもインドシナ各地出身の兵士が多数所属していたため、CEFEO(いわゆる『フランス軍』)約半数がベトナム国軍であり、さらに人種的には約7割がインドシナ人(ベトナム人・ラオス人・カンボジア人・少数民族)でした。

[CEFEOの人種・国籍別兵力の推移]
195119521953
フランス人(白人)51,17550,73759,526
北アフリカ人(地中海人種)11,00022,89236,628
アフリカ人(黒人)2,00013,28119,342
外人部隊(多人種だが主に白人)11,13116,66416,586
インドシナ人(アジア人)35,00086,00060,000
フランス軍 合計110,306190,592194,263
    
ベトナム国軍70,000135,000200,000
ラオス国軍4,00010,00015,000
カンボジア国軍5,50011,00011,000
インドシナ諸国軍 合計79,500156,000226,000
    
極東フランス遠征軍団 合計189,806346,592420,263

[CEFEOの人種構成]

ベトナム第5空挺大隊

 ベトナム陸軍第5空挺大隊(仏略:5e BPVN / 越略:TÐ5 ND)は1953年9月1日、ハノイのブイ学校(チュー・バン・アン中学)にて発足した。人員はフランス植民地軍第3空挺植民地大隊(3e BPC)および第23空挺インドシナ人中隊(23e CIP)から異動した総勢1,080名の将兵からなり、23e CIPは5e BPVNの第4中隊へと改編された。これに伴い植民地軍3e BPCは1953年8月31日に解散*したが、同部隊を指揮していたフランス人指揮官は5e BPVNに異動し、引き続き部隊の指揮を執った。
(※3e BPCは1955年にフランス本土で再編成され、現在はフランス陸軍海兵隊第3海兵空挺歩兵連隊(3e RPIMa)へと改称されている。)

[5e BPVNの歴代フランス人大隊長]
1953年9月1日 - 1953年12月15日: ジャック・ブーヴリー大尉
1953年12月20日- 1954年5月: アンドレー・ブテラ少佐
1954年6月 - 1954年7月: トリー大尉
1954年7月: ルッソー大尉

 実戦で稼働するまでに装備の確保と兵士の訓練に時間を要した他のベトナム軍空挺大隊とは異なり、5e BPVNの人員は当初大半がフランス人であったことから、同大隊はすぐに戦闘に参加する事が出来た。
 1953年9月23日、フランス連合軍はケサット運河沿いの紅河デルタ地域のベトミン軍掃討を目的とする『ブォーシェ』作戦を開始した。作戦には計18個大隊が投入され、5e BPVNもその一つとして全兵力で参加した。この作戦で5e BPVNは死者21名、負傷者57名の損害を出したため、その後同部隊にはベトナム人兵士が補充され、ハノイ市内のバックマイ空港での戦闘に参加するためハノイへと引き返した。
 その後5e BPVNは他の二つのフランス軍空挺大隊と共に1953年9月27日から29日まで、ソン・ジン・ハオ地区、省道192号および17号線、アンヴェ村における『ブォーシェII』作戦に投入され、さらに1953年9月29日から11月4日まで『ブォーシェIII』、『ブォーシェIV』作戦に引き続き参加した。その間、隊の人員は随時訓練を終えたベトナム人兵士に置き換えられ、5e BPVNは本格的なベトナム国軍部隊へと発展していった。
 この後5e BPVNはディエンビエンフーへの出撃に備え、11月12に日までにハノイに帰還した。


ディエンビエンフー

 1953年11月23日、フランス連合軍はラオス国境に近いベトナム北西部の丘陵地帯ディエンビエンフーを制圧・要塞化するため、第二次世界大戦以降最大規模の空挺降下作戦『キャストール』作戦を開始した。ディエンビエンフーには4,560名を超える空挺部隊が降下し、ブテラ少佐率いる5e BPVNものその一員としてディエンビエンフーに降り立った。


キャストール作戦の成功を伝えるフランスのニュース映像
L'OPERATION CASTOR A DIEN BIEN PHU - Institut national de l'audiovisuel


ディエンビエンフーに降下した5e BPVNのベトナム人兵士
ECPAD - Opération «Castor» à Diên Biên Phu, 20 – 24 novembre 1953.


 フランス連合軍部隊はディエンビエンフー制圧に成功し、同地はその後数ヶ月で約13,000名の守備隊が防衛するフランス連合軍最強の要塞の一つへと変貌した。キャストール作戦が成功裏に終了した事で、5e BPVNは1954年1月25日、バックマイ空港防衛のため再びハノイに引き返した。
 しかしその1か月後、ディエンビエンフーに対するベトミン軍の大攻勢『ディエンビエンフーの戦い』が開始されると、5e BPVNは増援として1954年3月13日に再びディエンビエンフーに空挺降下した。以後2か月弱に渡る壮絶な戦闘の末、1954年5月7日にディエンビエンフーは陥落した。5e BPVNはその兵力のほとんどをディエンビエンフーに投入していたため、同地の陥落・降伏と同時に5e BPVNは解散した。


ソ連の宣伝カメラマン ローマン・カルメンが撮影した実際のディエンビエンフーの戦いにおけるベトミン軍

 この戦いで5e BPVNには多数の死傷者が発生し、生き残った者も全員、他のフランス連合軍部隊と共にベトミン軍に捕虜として捕えられた。5e BPVNを含むベトナム国軍兵士は、独立を阻んだ売国奴と見做され、ほとんどの将兵がホー・チ・ミン政権下の捕虜収容所で、過酷な環境と虐待によって死亡した。


[参考文献]
Võ Trung Tín, Nguyễn Hữu Viên, 『Binh Chủng Nhảy Dù 20 năm Chiến Sự』, Tac Gia Xuat Ban (2000)
Martin Windrow, 『The French Indochina War 1946-1954』, Osprey Publishing (1998)
Michael Martin, 『Angels In Red Hats: Paratroopers of the Second Indochina War』, Harmony House Pub Louisville (1995)




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この記事へのコメント
御無沙汰しております。
反逆者扱いされた人間達のその後が気になります。
昨年ハノイ・ヒルトンに行ったのですが、監獄の中に居ると、何故だかとても憂鬱な気分になり、耐え難くなったので30分足らずで退散してきました。
資料室では収容された米兵がビール付の食事をニコニコ顔で堪能していたり、医師の健康診断を受けている動画が流れていましたが、多分に政治的な思惑を感じさせるものでした。
Posted by 連続射殺魔 at 2018年09月09日 23:47
連続射殺魔さん
コメント頂いた後あらためて捕虜のその後について調べてみたのですが、公的機関や学者など裏付けのとれる資料を基に書かれたものはどれもフランス人捕虜に関するものばかりで、現状ではベトナム人捕虜については当事者およびその家族からの伝聞に頼らざるを得ない事を予め念頭において置いてください。
まず、僕は75年以降実際に共産政権下の収容所(いわゆる再教育キャンプ)に投獄されていた元南ベトナム兵から直接、収容所では凄惨な拷問が行われていたと、しょっちゅう聞かされています。ただし、皆さん心底共産政権を憎んでいるので、もしかしたら誇張している部分が無いとも言い切れません。ただ少なくとも、衣食住も不十分な劣悪な環境で過酷な強制労働を数年から十数年強いられたのは確実です。
またディエンビエンフーを例にとると、捕虜になったフランス連合軍将兵およそ12,000名のうち、ジュネーブ協定によってフランス側に返還されたのは3,290名のみで、そのほとんどがフランス国籍者でした。一方、ベトナム人や少数民族は戦争捕虜ではなく犯罪者と扱われたため解放される事なく、その後も投獄が続き、ごく一部の脱走者を除き、生きて出て来た者はほとんど居なかったようです。
あの国はいまだに『敵は非道だが私たちは人道的』という子供じみたプロパガンダを国民に流し続けてますが、生れた時から学校教育とメディアを通じて『ホーおじさんと党が作った偉大な国』に住んでいると刷り込まれている素直な(ある意味普通の)ベトナム人は、割と本気でそれを信じてしまっているのが、なんとも情けないです。
Posted by 森泉大河森泉大河 at 2018年09月12日 17:32
返信遅れてすみません。

憎しみがそうさせるのでしょうね。
私は人間には愛想を尽かしているのですが、常日頃平穏であることを願う毎日です。



閑話休題、
実はステキな映画を見ましてね、
「蝶の舌」という題名のスペインの映画です。

スペイン内戦前夜の片田舎が舞台でして、
誰もから敬愛され、主人公の8歳の少年も慕う老教師が、
実は無神論者の共産党員だったという話です。
なかなかイイ感じなので、おヒマがアレあれば、是非。
Posted by 連続射殺魔 at 2018年09月25日 20:27
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