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2020年04月01日

グェン・バン・コズロウスキーの物語

※2022年7月1日更新

 『ストッシュ』の愛称で知られるベトナム共和国陸軍将校グェン・バン・コズロウスキー(Nguyễn Văn Kozlowski)大尉は、第一次インドシナ戦争のさなか、ベトナムに派兵されたフランス外人部隊のポーランド人兵士と、現地のベトナム人女性との間に生まれた。
 ベトナムで生まれ育ったユーラシアン(ヨーロッパ・アジア混血)であるコズロウスキーは、成長するとベトナム共和国陸軍に入隊し、その恵まれた体躯を活かして第5レンジャー群第32レンジャー大隊所属の下士官となっていた。ベトナム軍人でありながら白人のような外見を持ち、兵士としても優秀であったコズロウスキーは米軍MACVのアドバイサー達からも一目置かれる存在であった。
 またコズロウスキーには、ジギー・ジャブロンスキー(Ziggy Jablonski)というポーランド系アメリカ人の従兄弟が居り、偶然にもジギーはアメリカ海兵隊兵長としてダナンに派遣されていた。従兄弟同士でありながら遠く離れた地で生まれ育った二人は、ベトナム戦争によって初めてベトナムの地で対面する事となった。


幻のソンタイ・レイダース

 1968年、米軍MACV-SOGは、北ベトナムの首都ハノイ郊外に位置するソンタイ捕虜収容所に収監されている米軍人を救出すべく、ベトナム共和国軍NKTのコマンド部隊を突入させる捕虜救出作戦を立案した。この作戦は、当時まだ実戦で行われた事の無かった落下傘降下の新技術HALO(高高度降下低高度開傘)によってベトナム軍長距離偵察チーム捕虜収容所付近に降下、襲撃を行うもので、未だかつてない危険な任務であった。
 時を同じく、レンジャー部隊から特殊部隊に進み、ドンバティン特殊部隊訓練センター(ニャチャン)を首席で卒業したコズロウスキー中士(軍曹)はSOGアドバイザー達に高く評価され、救出部隊に先行して単身でソンタイ収容所付近にHALO降下し、本隊を降下地点に誘導するパスファインダー(降下誘導員)に抜擢された。
 ところが作戦決行前夜、コズロウスキーは従兄弟のジギーと二人で、武運を祈ってポーランド式に酒を飲み明かした結果、二日酔いの状態で任務に当たる事となってしまった。そして、いざコズロウスキーを乗せた輸送機がソンタイ上空33,000フィート(約1万メートル)に達し、彼が機体からジャンプした瞬間、彼は緊張と体調不良からパニックに陥ってしまった。コズロウスキーがこれまで経験してきた通常のスタティックラインジャンプでは、ジャンプした瞬間にパラシュートが開き、両肩のハーネスに強いショックを感じるが、今回のHALOではそれが無い。コズロウスキーの身体は、パラシュートが開いていない事に本能的に恐怖を感じ、機体から飛び出してすぐに、つい自らメインシュートの開放ハンドルを引いてしまった。そして開いたパラシュートは輸送機の機体に引っかかり、コズロウスキーは高度1万メートルで宙吊り状態になってしまった。しかし輸送機はそれに気付かず、予定道りビエンホア空軍基地に帰投する進路を取った。
グェン・バン・コズロウスキーの物語
 この時点でコズロウスキーは、今からでは例えメインシュートを切り離して予備パラシュートを使ったとしても、予定していたソンタイ収容所の傍のDZ(降下地点)に降りる事は不可能であり、自分のミスのせいで作戦が失敗に終わった事を悟った。しかし彼の意識は次第に低温と低酸素状態、そして二日酔いで朦朧とし、彼はしばらくの間、眼下に広がる雄大な自然の美しさを楽しむ事にした。そして、半ばやけくそになったコズロウスキーは、輸送機が向かっているビエンホアには自分の妹が住んでいるので、ビエンホアに近付いたら絡まったパラシュートを切り離し、予備パラシュートで妹の家に降りてやろうと考えるようになった。
 そして数時間後、輸送機はソンタイから1,000km以上南にあるビエンホアに到達し、コズロウスキーは実際にメインシュートを切り離し、予備パラシュートで無事地上に降り立った。しかしその場所は妹の家から数マイル離れた見知らぬ場所であった。最終的にコズロウスキーは、ホーゴックタウに駐屯するヌン族マイクフォースによって発見、保護された。コズロウスキーは現地のマイクフォース司令官に、自分はハノイ上空1万メートルから1,000km以上飛行機にぶら下がって帰ってきたと話したが、そのような馬鹿げた冒険談を信じる者は居らず、彼は精神異常を疑われた上、サイゴンの病院へヘリで救急搬送された。
 入院したコズロウスキーは、自分が作戦を台無しにしてしまった事を恥じ、また保安上の理由からも、自分がどのような経緯で熱帯のベトナムで低体温症になり救急搬送されたかを医師に話す事は無かった。またベトナム・アメリカ両軍の関係者もこの作戦の存在について口を閉ざしたことから、歴史に記録されるソンタイ捕虜収容所救出作戦や、史上初の実戦でのHALO降下作戦は、このコズロウスキーが参加した作戦の数年後に初めて行われた事になっている。



メリー・ポピンズ小隊(MPP)

 入院中、コズロウスキーはベトナム軍総参謀部第2室(情報・保安部)による事情聴取を受け、事の次第を正直に報告した。しかし今回は、世界で未だ前例の無いHALOジャンプにおける失敗であり、また強襲チームの降下が中止となった事で人的被害も無かった事から、コズロウスキー個人の責任が追及される事は無かった。
 一方米軍SOGは、米軍ですら実戦経験の無いHALO作戦を、机上の計画だけでベトナム軍単独で行わせた今回の作戦は無謀であったと率直に反省し、新たにベトナム・アメリカ軍合同のHALO潜入作戦チームの設立に着手した。
 そしてベトナム軍側のHALO第一人者としてこの部隊に選抜されたのが、ソンタイに降下し損ねたコズロウスキー中士であった。事実コズロウスキーは本番ではミスを犯したものの、準備段階ではSOGの指導による入念なHALO訓練を積んでおり、実力は十分に備わっていた。前代未聞の大失敗かつ大冒険を演じたコズロウスキーには、SOG隊員たちから親しみを込めて『ストッシュ(Stosh:ポーランド語で俗に「マヌケ」の代名詞として使われる人名)』という渾名が付けられた。また1,000kmもの距離を宙吊りで帰って来た彼の冗談のような武勇伝をミュージカル映画メリー・ポピンズの登場人物に例え、この越米合同HALO部隊は『メリー・ポピンズ小隊(Mary Poppins Platoon)』と名付けられた。

 こうして発足したメリー・ポピンズ小隊その後の数年間で、幾度もの越境潜入作戦に投入されていく。
 創設から間もない1968年末には、アメリカ軍の指揮下にある唯一の実戦的なHAKO部隊であったメリー・ポピンズ小隊は、ベトナムから遠く離れた北朝鮮での作戦に投入された。これは同年1月の「プエブロ号事件」において、日本海上で北朝鮮海軍に拿捕された米海軍情報収集艦プエブロ乗組員救出を目的とする作戦であった。メリー・ポピンズ小隊を乗せた輸送機は韓国の米空軍基地を飛び立ち、日本海上を経由して、捕虜収容所が位置する北朝鮮の江原道ウォンサン上空に到達した。そしてメリー・ポピンズ小隊は予定通り、ウォンサン港付近にHALO降下した。しかし部隊が北朝鮮領内に潜入して間もなく、米国政府が朝鮮戦争再発とソ連の介入を危惧して北朝鮮側に譲歩した事で、捕虜たちは穏便に返還される事が決定した。こうして収容所強襲作戦は中止となり、メリー・ポピンズ小隊は敵に気付かれる事なく北朝鮮から離脱した。
 また別の作戦では、ラオスのジャール平原における共産軍との戦いで窮地に陥ったラオス王国軍/右派モン族指導者ヴァン・パオ将軍を支援するため、リー・ポピンズ小隊は、ビルマの山岳地帯に緊急派遣された。この地には第2次大戦中に日本軍が建設した砲兵陣地と榴弾砲1個中隊が残置されており、火砲はビルマ共産党軍の支配下で稼働状態にあった。リー・ポピンズ小隊はこの砲兵陣地を強襲・占領し、ビルマ共産党から奪った旧日本軍の榴弾砲を使い、ラオスに向けて支援砲撃を行った。

 コズロウスキーはメリー・ポピンズ小隊の中心人物として、SOGと共にこうした特殊作戦の全てに関わり、最終的に陸軍大尉に昇進した。HALO作戦の黎明期においてコズロウスキーの果たした役割は大きく、リー・ポピンズ小隊によって研究・開発されたHALO技術の多くは、現在のアメリカ軍特殊部隊に受け継がれている。
 またこうした特殊作戦に従事したアメリカ、ベトナム軍の特殊部隊員たち向けに、リー・ポピンズ小隊では現地ベトナム製の非公式な戦闘降下資格証が制定された。その図案はベトナム陸軍の空挺職種徽章をベースとしながら、かつてコズロウスキーの父が所属したポーランド軍空挺部隊、そしてコズロウスキー大尉のシンボルメリー・ポピンズ」の傘がデザインされたものであった。

グェン・バン・コズロウスキーの物語
▲[左]ベトナム陸軍空挺科職種徽章、[中]メリー・ポピンズ小隊戦闘降下資格証、[右]ポーランド軍第28落下傘大隊部隊章










というのは真っ赤なウソです。
グェン・バン・コズロウスキーなんて人物も、メリー・ポピンズ小隊という部隊も実在しません。でも、ワクワクするお話だったでしょ?
出典として挙げた記事は、米国のミリタリーインシグニアコレクターグループが発行している季刊誌『Chute & Dagger』に掲載されたものです。
実は僕も最初にこの記事を読んだ時は実話だと思って、ものすごく興奮したのですが、なんかよく読むと話がおかしいので、ちょっと調べたらブログ『JULESWINGS』さんで、これはジョークネタだよと、ネタバレが書いてありました。

この記事は『Vietnam War Veterans Trivia Newsletter』という架空の雑誌に、ハリー・フラッシュマン准将(BG Harry Flashman)なる人物への取材を基に掲載された物、という体で紹介されています。
ちなみにハリー・フラッシュマン准将とは、19世紀のイギリス軍人の姿を描いたジョージ・マクドナルド・フレイザーの長編小説『The Flashman Papers』シリーズの主人公であり、これまた架空の人物です。
また記事原文では、コズロウスキーはソンタイ上空でジャンプした後、単に風に流されビエンホアまでたどり着いたり、またハノイに降下するはずが、また突風に見舞われ偶然北朝鮮まで流されて現地で米軍捕虜を救出したりと、かなり荒唐無稽な内容なので、ちゃんと読めばこれがジョークネタだという事はすぐ分かるようになっています。
でも、これをそのまま僕のブログに日本語で書いてもエイプリルフールネタとして弱いので、今回はちょっとリアリティを持たせて、ストーリー的にも面白くなるよう、細部は僕が肉付けしました。

グェン・バン・コズロウスキーの物語
なお、今回『メリー・ポピンズ小隊戦闘降下資格証』として掲載されているこの徽章ですが、その名称や設定は架空であるものの、この徽章自体はベトナム戦争中から実在しています。しかしその正体はコレクターや研究者の間でも長年謎のままであり、そのためにこのメリー・ポピンズ小隊、そしてコズロウスキーの物語が創作されたようです。

以上、当ブログ初のエイプリルフール記事でした。不確実な情報が容易く拡散するこのご時世、もしかしたら記事を最後まで読まないせっかちな人がこれを実話として拡散しちゃうかもしれないけど、まぁそれはそれで面白いので、そうなる様子を見てみたい気もします(笑)




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Posted by 森泉大河 at 02:06│Comments(0)その他
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