2015年12月13日
空挺コマンド
※2019年1月30日更新
なのに何故こんなに混同されてしまったかと言うと、それは単純に"Ranger"という訳語のせいです。戦争当時、アメリカ軍はベトナム共和国軍と合同で作戦を遂行するにあたり、べトナム側の軍事用語を英訳して使っていました。そしてその中で、似通った意味を持つ"Biệt Cách"と"Biệt Động Quân"という二つの言葉は、それぞれ同じ"Ranger"と英訳されてしまいました。アメリカ軍自身は当事者であるため、当然それが別の組織である事を認識していましたが、戦後のマニアはベトナム語資料を読むことを避け、英語でしか情報を得ようとしなかったため、この二つの"Ranger"を同じ組織だと誤解してしまったようです。
僕的には、ベトナム共和国軍はフランス連合軍を前身としている組織である事から、Biệt Cáchはフランス語の"Commando"と訳した方が組織の伝統的にもしっくり来るし、またレンジャー部隊(BĐQ)との混同を避けるためにも、Biệt Cách Dùは"空挺コマンド"と日本語表記する事にしています。(ただしBĐQも同じくコマンドと言えるので、あくまで別部隊である事を明確にするための便宜的な使い分けに過ぎません。)
とまぁ、誤解を解いてもらった上で、空挺コマンド部隊の略史をご紹介します。
コマンド部隊創設
1956年、ゴ・ディン・ジエム総統(大統領)が特殊部隊の創設を指示。
1956年末、特殊作戦を統括する『総統府連絡部(Sở Liên lạc Phủ Tổng thống)』が、CIAの支援の下に設立。
1957年初頭、ブンタウで空挺降下・諜報活動の訓練が開始。その後、ニャチャンにおいて米軍MAAGのグリーンベレー第77特殊部隊群・機動訓練チーム(Mobile Training Team)によるコマンド訓練コース開始。
1957年11月、ニャチャンにおいてベトナム共和国軍初の特殊部隊、『第1観測隊(Liên đội Quan sát Số 1)』編成。
1958年、部隊は『第1観測群(Liên Đoàn Quan sát Số 1)』へ発展。同年、総統府連絡部内にコマンド部隊を統括する『地理開拓部(Sở Khai thác Địa hình)』を設置。
1961年、第1観測群は『第77群 (Liên Đoàn 77)』へ改称。同年、新たなコマンド部隊『第31群 (Liên Đoàn 31)』編成。
CIA・MAAGの指揮による北ベトナム・ラオス潜入工作『パラソル/スイッチバック作戦』(地理開拓部 北方部が担当)、ならびにCIDG計画(地理開拓部 南方部担当)が開始。
1963年2月、新たなコマンド部隊『第31群 (Liên Đoàn 31)』編成。(2015年12月13日訂正・追記)
1963年3月15日、第77および第31群を総統府連絡部より分離、地理開拓部は『特殊部隊(Lực Lượng Đặc Biệt, LLĐB)』として再編される。
1963年11月1日、軍事クーデターによってジエム政権が崩壊。総統府連絡部、LLĐB本部は一旦解体され、総参謀部の直接指揮下に置かれる。
その後、国外作戦を行うLLĐB司令部第45室(北方部)はLLĐBより分離され、総参謀部直属のSKT(後のNKT)に編入される。
国内作戦を担当する第55室(南方部)は引き続き米軍グリーンベレー第5特殊部隊群と合同でCIDG計画や心理戦、国境地帯の偵察作戦を実施。
▲第1観測群、第77群、第31群 部隊章
▲LLĐB部隊章 1963年(左) 、1964年以降(右)
プロジェクト・デルタ
1964年、グリーンベレー/LLĐBの合同作戦『プロジェクト・デルタ (Hành quân Delta)』が開始。
1964年9月、LLĐB第77群は『第301群』へ、第31群は『第3群』へ改称。
1964年11月、LLĐBはコマンド隊員を統合した『第91空挺コマンド大隊 (Tiểu Đoàn 91 Biệt Cách Dù)』を編成。
▲第91/81空挺コマンド大隊 部隊章
※2016年12月23日追記
第91空挺コマンド大隊の部隊章は第1歩兵師団強襲中隊"Hac Bao"とデザインが酷似していて紛らわしかったため、総参謀部は1968年の第81空挺コマンド大隊への改編と同時に部隊章を廃止し、以後1970年まで部隊章が存在しなかった。(LD81BCNDベテランの証言より)
1965年、連携強化の為、グリーンベレーとの共同任務に当たるLLĐB部隊はグリーンベレーの編成に合わせて全国4つの戦術地区に司令部(Cチーム)、その下にBチーム、Aチームを編成する。
(第91空挺コマンド大隊およびコマンド雷虎(MACV-SOG指揮下)はこの編成に含まれない)
1965年6月、第91空挺コマンド大隊がB-52プロジェクト・デルタに編入。偵察チームが発見した目標を強襲するデルタの主力部隊となる。
▲プロジェクト・デルタに編入された第91空挺コマンド大隊
(写真左: 1965~1966年頃、写真右: 1967年 ニャチャン)
1968年1月30日、テト攻勢において第91空挺コマンド大隊はニャチャンの防衛に当たり、共産軍の撃退に成功。
▲ニャチャン市街の共産軍を掃討する第91空挺コマンド大隊(1968年2月テト攻勢 ニャチャン)
1968年5月、第91空挺コマンド大隊の三個中隊およびデルタ偵察チーム6部隊が統合され、『第81空挺コマンド大隊(Tiểu Đoàn 81 Biệt Cách Dù)』に改称。
1968年6月、共産軍掃討のためサイゴン北部に展開。1週間の戦闘の後、敵をサイゴンから撤退させることに成功。
統合予備部隊
1970年6月、アメリカ軍の撤退開始に伴い、CIDG計画やプロジェクト・デルタ、その他グリーンベレーとLLĐBの合同作戦は終了。
1970年8月、LLĐBは活動を終了し解隊。ほとんどのLLĐB所属者がCIDG部隊をBĐQ(レンジャー)に統合した『国境レンジャー大隊 (BĐQ-BP)』、もしくはNKTに新設された作戦部『コマンド黒龍』に編入される。
1970年12月、第81空挺コマンド大隊は、『第81空挺コマンド群 (Liên Đoàn81 Biệt Cách Nhẩy Dù)』として再編成され、統合予備部隊となる。
(統合予備部隊: 軍団に属さず、必要に応じて全国に展開する総参謀部直属の即応予備部隊。空挺師団・海兵師団も同様に統合予備部隊所属)
編成当初の兵力は約900名で、1個本部中隊、1個偵察中隊、7個強襲中隊からなる。
さらにその後も規模を拡大し、司令部と指揮支援中隊、3個の戦術司令部を持つ。各司令部は4つの強襲中隊を持ち、各隊は200名の隊員からなる。最終的に第81空挺コマンド群の兵力は3000名に上った。
▲第81空挺コマンド群 部隊章
▲第81空挺コマンド群の将兵
LLĐBは解散したが、第81空挺コマンド群だけはLLĐBの部隊表彰を継承しており、ベレー、部隊章、保国勲章飾緒を引き継いでいる。
1972年のイースター攻勢において、第81空挺コマンド群は包囲されたアンロクで基地強化の任務を行っていた。
1972年4月、空挺コマンドはアンロク市南端からヘリで飛び立ち、空挺コマンドによる防衛ラインの最前線を形成しながら北へ前進。
1ヵ月後、壮絶な戦闘で大きな損害を被りつつも、空挺コマンドは包囲を打ち破る事に成功する。 この犠牲と活躍にアンロク市民は感謝し、後に市民により記念碑が建設された。
▲第81空挺コマンド群第3および第4強襲中隊 (1972年4月 アンロクの戦い)
1974年末、共産軍は第3軍管区フォクロン省フォクビンを包囲。第81空挺コマンド群は増援としてフォクロン南部地域の防衛を命じられる。
1975年1月5日朝、1個中隊が街の東部にヘリで飛び立ち、午後の早い段階で250名以上の空挺コマンドがフォクロンに到着。
1975年1月6日、共産軍の猛烈な攻撃により、元から配置されていた守備隊は敗走。共産軍が街を制圧すると、空挺コマンドとの連絡は途絶える。
翌日、空挺コマンドの残存兵は街の北部で発見される。 以後4日間の捜索で救助された生存者は、部隊の約50%に過ぎなかった。
▲フォクロンに出撃する第81空挺コマンド群 (1975年1月5日)
1975年3月、国土の北半分を失い、サイゴン政府は軍の再編成を試みた。 混乱する第2軍団から到着した第81空挺コマンド群は、バンタウで再編成が行われた。
1975年4月半ばまでに、第81空挺コマンド群は第18歩兵師団の作戦指揮下となりスンロクに配置されたが、その地で壊滅的な損害を受けて撤退する。 (スンロクの戦い)
残存兵力はサイゴン防衛のため撤退し、タイニン、ビエンホアで最後まで抵抗を行ったが、4月30日の敗戦を回避することは出来なかった...
<ベテラン公式サイト>
グリーンベレーB-52: B-52 Project Delta
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