2019年04月13日
YDA JAPAN映像作品「第二次アプバクの戦い 1965」
※2019年11月27日訂正
そしてこちらが、編集作業を終えたYDA JAPAN映像作品第一弾『第二次アプバクの戦い 1965』になります。
(本当は昨年末には完成していたのですが、ブログに載せるのをすっかり忘れておりました。)
一応僕が主催者ですが、正直、ここまで良い出来になるとは思っていませんでした。
撮影会に集まってくれた友人たちには本当に感謝しています。
中でも特に、撮影・編集に尽力して下さった963中隊の皆さんの熱意と技術には感服するばかりです。
【作品解説】
1965年の「第二次アプバクの戦い」におけるベトナム陸軍第7歩兵師団第11連隊を米軍映像記録部隊が撮影・編集した宣伝映画を想定しています。
なぜ有名な1963年の「(第一次)アプバクの戦い」ではなく、わざわざ無名な1965年の方をやっているかといいますと、実は私たちも元々はその1963年の戦いを再現するつもりで資料集めを始めました。しかしアプバクの戦いは戦史上有名な割には、米軍の本格参戦前なので外国メディアによる取材例が少なく、それに伴い作戦中の写真も少ないので資料集めは難航しました。そんな中見つけたのがこちらの映像資料です。
写真資料が少ない中、この映像はアプバクの戦いを記録したこれ以上ない資料だと思い、我々はこの映像をモチーフに作品を撮る事に決めました。そして映像に移っている第7歩兵師団のスカーフなども製作し、6月に撮影を行いました。音声もこの映像の物をそのまま流用しています。
ところがこの1回目の撮影会の後、フランスに住む研究者から「この映像には第一次アプバクの戦いには投入されていないはずのUH-1D型やM113APCの機銃防盾が写っている。これ1963年じゃなくて1965年の第二次アプバクの戦いの方だと思うよ」と指摘を頂きました。この映像をYoutubeにアップした人物は、1963年の方の第一次アプバクの戦いと勘違いしてタイトル・キャプションを書いたようです。そして僕もそれを鵜呑みにしてしまったと。うわぁ~、やっちまった~!
もう一から撮り直しは出来ないため、2回目の撮影会からは設定を急遽1965年に変更しました。これが今回、第二次アプバクの戦いがテーマとなった経緯です。
まぁ当初の目標とは異なるけど、見方を変えれば、、第一次アプバクの戦いは政府軍がゲリラ相手に敗退した不名誉な戦いとして記憶されている一方、第二次では政府軍が普通に勝ったのでニュースにならなかっただけで、僕らとしては別に第二次を拒む理由はありません。
【YDA】
ちなみに僕らのグループ名『YDA JAPAN』ですが、これはYDAの日本支部という意味で、本家YDAはアメリカにあります。YDA (Young Daragon Asociation)とは僕の友人で米国在住の映像作家ハウ・ルック氏が主宰する、主に在米ベトナム人で構成されたベトナム戦争専門映像制作グループです。元々ハウを中心とする大学生のアマチュアグループでしたが、現在ではベトナム共和国軍伝統保存会(本部カリフォルニア)公認の下、カリフォルニア州のベトナム語放送テレビ局SBTNと共同で連続ドラマや長編ドキュメンタリーを制作するに至っています。
【本家YDAの作品】
全米大学映画祭(Campus MovieFest)出品作品
短編ドラマ集としてSBTNで全12話放送。この作品から衣装協力でYDA作品制作に参加。
初の長編ドキュメンタリー映画。SBTNで放映。ベトナム国内でのロケには僕も出演しています。
全米大学映画祭 審査員賞受賞作品。
撮影当日、「タイガはベトナム語話せないから台詞の無いベトコン役やってよ」と言われ、端役だと思ってOKしたんですが、撮ってみたらナイフ一本で政府軍のエリート部隊兵士二名を殺害する最強ベトコンソルジャー役でした。
撮影場所は監督の彼女(現奥さん)の家の裏にある雑木林なので、この時は実弾は使いませんでした。
そして僕もYDAの一員という事になっているので、日本で撮影会を行うにあたり、勝手にYDA JAPANを名乗っちゃいました。(※ハウ監督には事後承諾済み(笑))
日本に住む我々では、言葉や人種まで再現することは出来ませんが、それ以外の部分は愛と工夫で補う事ができると思っています。日本のリエナクターとして、これからも良い意味で本家と張り合って行きたいです。
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