2014年07月06日
祝日とパレードとクーデター
※2023年10月7日更新
どこの国にも建国記念日や独立記念日など、国の成り立ちと繁栄を祝う国家の祝日がありますね。ベトナム共和国にももちろんそう日があり、首都サイゴンでは華やかな軍事パレードが執り行なわれました。
南ベトナムの軍装を調べるに当たり、このパレードの映像というのはこの上ない重要な資料だったりします。軍のほとんどの部隊が勢揃いしていますし、いろんな制服が見れますし、なにより日付・場所がハッキリしているので、文句なしの一次史料なんです。
しかし実は、そのパレードが行われる日付と祝う対象は、共和国の20年の歴史の中でいくつか変更がありました。今回は、そのパレードが行われた3つの祝日を、Youtubeに上がっている映像と共にご紹介します。
1955年~1963年:10月26日 国慶の日(共和国宣言記念日)
国慶の日(Ngày Quốc khánh)は1955年10月26日、初代総統ゴ・ディン・ジェムによって『ベトナム共和国』の成立が宣言された、実質的な独立記念日です。
第一次インドシナ戦争が終結しベトナムが南北に分断された翌年の1955年当時、ベトナム国(南ベトナム)は1949年に制定されたフランスとの独立協定の下で阮朝最後の皇帝バオ・ダイが国長を務めており、実質的には依然フランスの属国という地位でした。
これを憂いたベトナム国首相ゴ・ディン・ジェムは、アメリカの支援を受けてバオ・ダイの追放とフランスからの完全独立を画策します。そして同年10月23日に行われた国民投票(1955年国民投票)により、フランスの傀儡だったバオ・ダイを失脚させる事に成功。10月26日に自ら初代総統として『ベトナム共和国』の成立を宣言しました。
また翌年の1956年10月26日には、それまでの独立協定を破棄してベトナム独自の新憲法(56年共和国憲法)を公布し、駐留していたフランス軍も完全撤退することで名実共にフランスからの独立を果たします。このジェムの無血クーデターは、フランスの撤退ムードに乗じて犠牲者を出すことなく南ベトナムの独立を成功させた見事な政略だったと言えるのではないでしょうか。
しかし、この『10月26日 国慶の日』は、第一共和国(ジェム政権)の崩壊と共に終わりを迎えます。
"清廉な独裁者"と評されたように、ジェム総統はもともと熱烈な愛国心を持った人物であり、政治家としては私利私欲に走ることなくベトナムの独立や経済発展に力を注いだ人物でした。
しかしその一方で、ジェムの強権的な政策は国内に強い反発を招いており、特に軍部とは独立当初から度々衝突して1955年の軍幹部粛清(軍の抵抗で失敗)、1960年・1962年の軍事クーデター未遂事件と、政府と軍が互いに牽制しあう状態が続いていました。
反発を押さえつけるため、ジェムは自分のシンパで構成された政治結社カンラオ党(人格主義労働者革命党, Cần lao Nhân vị Cách mạng Đảng)に実質的な秘密警察としての権限を与え、実弟のゴ・ディン・ニューの指揮の下、反ジェム派と見なした者を次々逮捕・粛清していました。
そんな中、1960年には北ベトナムが南ベトナム政府へのサボタージュ工作として、このジェム政権への反発を利用して南ベトナム領内に共産ゲリラの南ベトナム解放民族戦線を組織。ここから、15年間もの長きに渡って同じベトナム人同士の血が流された泥沼のベトナム戦争が勃発します。
さらに熱心なカトリック教徒であったジェムは、仏教を時代遅れのアジアの悪習・ベトコンの温床と見なし、国政や軍の人事にまで極端なカトリック優遇と仏教排斥を行っていました。この宗教弾圧に国内の怒りは最高潮に達し、1963年には仏教徒の市民らによる全国的な暴動へと発展します(仏教徒危機)。これに対しジェム政権は軍を動員して事態を収拾、と言うより反乱分子として排除・粛清を行い、多数の犠牲者を出す事態となりました。この凄惨な事件は国内外から激しい批判を浴び、ジェム総統はアメリカ政府、そしてそれまで何とか自制心を保って政府の命令に従ってきた南ベトナムの軍部からも見限られる決定打となります。
そして仏教徒危機が続く1963年11月1日、アメリカCIAの支援を取り付けたズオン・バン・ミン将軍ら軍部は、ついにジェム政権に対する軍事クーデターを実行します。これによりジェム総統をはじめとする政権関係者およびジェム派の軍幹部は逮捕・処刑され、8年間続いた第一共和国体制は消滅したのでした。また、これ以降、ジェムの功績である共和国宣言(10月26日)が祝われることも有りませんでした。
▲ジェム総統50回忌式典 (2013年11月2日米国カリフォルニア州ウェストミンスター)
昨年、ジェム総統の命日である11月2日(クーデターの翌日に処刑された)に、米国で亡き総統の50回忌を記念した式典が執り行われました。
ジェムの最期は悲惨なものでしたが、一方で彼は南ベトナム独立の父、そして共産主義と戦った指導者として、今でも南ベトナム人たちから一定の評価を得ています。
1963年~1975年:11月1日 国慶の日(革命記念日)
1963年11月1日クーデターの後、新たに樹立された軍事政権(革命軍事委員会)は、この日を共和国宣言に代わる新たな建国の日として『国慶の日』に再制定します。軍にしてみればこのクーデターは“国民をジェムの圧政から救った革命”であり、その記念日は1975年の敗戦まで国家の祝日であり続けました。
▲1965年11月1日 国慶の日パレード
※グエン・カオ・キ(当時首相)がパレードカーに轢かれた回です(笑)
1965年~1975年:6月19日 国軍の日(軍政記念日)
国軍の日(Ngày Quân Lực)は、1965年6月19日の軍事政権成立を記念したベトナム共和国軍の記念日です。
1963年11月のジェム政権崩壊と革命軍事委員会の発足により、混乱のきっかけとなった仏教徒危機はなんとか収束しました。しかし今度は、政権を握った軍部がベトコン問題への対応をめぐって内部分裂してしまいます。そして1964年に入ると、穏健派のズオン・バン・ミン将軍と強硬派のグエン・カイン将軍は互いにクーデターを乱発し、南ベトナム情勢は混乱の極みに達していました。
1964年10月、国家評議会議長に無所属の政治家ファン・カク・スーが就任した事でミン派とカイン派の抗争は一時終息しましたが、この混乱は国民の期待、そして最大の支援国アメリカの思惑を大きく裏切る物でした。
〔ジェム政権からスー政権への変遷〕
ゴ・ディン・ジェム(総統 1955年10月~1963年11月)
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ズオン・バン・ミン(革命軍事委員会委員長 1963年11月~1964年1月)
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グエン・カイン(革命軍事委員会委員長 1964年1月~1964年2月)
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ズオン・バン・ミン(国長 1964年2月~1964年8月)
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グエン・カイン(議長 1964年8月)
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暫定指導委員会(ズオン・バン・ミン, グエン・カイン, チャン・チェン・キェムの三頭体制 1964年8月~1964年9月)
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ズオン・バン・ミン(暫定指導委員会委員長 1964年9月~1964年10月)
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ファン・カク・スー(国家評議会議長 1964年10月~1965年6月)
▲三頭体制の指導者(1964年9月)
左からキェム、ミン、カイン
▲新指導者のスー(中)とミン(左)、カイン(右)(1964年)
そんな中、ミンとカインを見限ったアメリカCIAが新たに支援したのが、グエン・カオ・キ少将(当時空軍司令官)を中心とする軍の若手将官グループでした。1965年2月、キ少将らはスー政権に対する無血クーデターを実行します。その結果、キらは政権を奪取するには至りませんでしたが、多大な権力を牛耳っていたカイン将軍を失脚させる事に成功しました。
しかし、その後もスー政権は内政をまとめる事ができず、混乱は更に続きます。こうしてベトコンの浸透と北ベトナム軍の軍事侵攻が深刻化する中、もはや通常の国家運営による事態収拾は不可能と見なされるようになっていました。そして1965年6月11日、ついに南ベトナム国会(国家立法評議会)は全会一致で、政府の全権限を軍事評議会に委ねる、軍事政権への復帰が採択されます。同6月14日、軍事評議会は国家指導評議会議長(国家元首)にグエン・バン・チュー中将を、中央執行委員会議長(首相)にグエン・カオ・キ少将を選出します。
そして6月19日、軍事評議会は国会の解散を決定し、以後南ベトナムの政治は完全に軍が主導する事となりました。これにより1963年のジェム政権崩壊以降続いていた南ベトナム国内の混乱は終息し、挙国一致で共産軍に立ち向かう戦時体制がようやく整います。これを記念して、チュー政権はこの6月19日を『国軍の日』に制定し、以後南ベトナムで最も重要な祝日とされました。
▲1966年6月19日 国軍の日パレード
グエン・カオ・キ首相(左)とグエン・バン・チュー国家指導評議会議長(右)
なお、このチューの軍事政権はその後、1967年に憲法を改正し(67年共和国憲法)、議会制民主義を謳う第二共和国時代が始まります。チューはこの年の総統選で当選し、公式に南ベトナムの総統に、キは副総統に就任し、以後8年に及ぶ長期政権が確立しました。
またチュー総統は1969年に軍籍を離れ、国家社会民主戦線(旧民主党)を主宰する一政治家となり、文民統制も一応復活します。
2014年の6月19日 国軍の日
ベトナム共和国は1975年の敗戦によって消滅してしまいましたが、その後も国軍の日は、共産政権から脱出した南ベトナム難民たちにとって、亡き祖国に思いをはせる重要な記念日であり続けています。そして終戦から39年目の今年も、国軍の日を祝って世界各地で盛大な式典が行われました。
今日、南ベトナム難民の皆さんも高齢化が進み、特に当時軍人だった方はベトナム共産党政府に逮捕される恐れがあるため、生きて生まれ故郷に帰れる可能性はほとんどありません。
だからこそ、北の侵略によって奪われた祖国の名誉を、移民先で生まれ育った若い世代に語り継ぐことは、彼らに残された最後の報国なのかもしれません。
※今年の6月19日は平日だったため、いくつかのイベントは直前の土日である6月14・15日に開催されました。
▲アメリカ カリフォルニア州ウェストミンスター
▲アメリカ マサチューセッツ州ボストン
▲カナダ モントリオール
▲フランス パリ
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