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2015年07月21日

帰国しました

サンフランシスコでジャンキーに絡まれたり、LAXでコンタクトの洗浄液没収されたり、飛行機の中で放屁が止まらなくなったりと色々ありましたが、無事日本に戻ってきました。

アメリカではホア少尉をはじめとする元ベトナム共和国軍人および関係者の皆さんには、お宅に泊めて頂いたりユニバーサルスタジオに連れて行ってもらったりと、何から何までお世話になりっぱなしでした。
私のような外国人をここまで暖かく迎えて頂けるなんて、本当に感謝してもしきれません。
今回アメリカで過ごした日々は、私にとって単なる趣味の延長を超えた、人生最高の旅となりました。
このご恩は一生忘れません。Cảm ơn nhiều!

お世話になった皆様

グエン・バン・フェップ少尉(左) 元NKT本部P3(作戦・訓練参謀室)
レ・ホアン少尉(右) 元NKT作戦第11グループ"STRATA(短期監視・目標捕捉)"
STRATA時代のホアン少尉(写真右側 1973年)


元NKTの皆様 左より
トゥン・カーベイ氏 元NKT連絡"雷虎"
タイガ
フェップ氏の奥様
チュン氏の奥様
チュン氏 元NKT作戦"黒龍"第75作戦グループ
ヒュー氏 元NKT連絡"雷虎"


元NKT沿岸警備副指令
および元NKT連絡"雷虎"第3戦闘強襲団北カリフォルニアCCS連絡会の皆様


トム・トラン氏 陸軍大佐(第21歩兵師団副師団長)のご子息


カン・ブイ氏 空軍大佐(ベトナム総統専用機の機長)のご子息


ウィリアム・ミミエイガ少佐 元アメリカ海兵隊第3海兵師団


ファム・ホア少尉 元NKT作戦"黒龍"チーム723


ヴゥ・フン少尉 元地方軍第4軍管区PRU



こうして見ると最終階級が少尉(Thiếu úy)の方が多いですが、これには訳があります。
まず、お世話になった方の多くが士官学校もしくはNKT配属時にホア少尉とほぼ同期(1972年前後)であり、だから今回ホア少尉の呼びかけで皆さんが僕をお世話して下さったという訳です。
また、本来将校は任官後も軍の様々な学校で教育を受けて昇進するそうなのですが、1970年代に士官学校を卒業したホア少尉ら若い将校は、戦況の悪化から常に前線で戦っていたため、新しい教育を受ける機会が無かったのだそうです。
さらに仮に教育を受けた者はすぐに大尉に昇進してしまうため、この年代の尉官は中尉が少なく、少尉のまま終戦を迎えた方が多かったのだそうです。なるほど~
  


2015年07月16日

ウェストミンスターにて

カリフォルニア州ウェストミンスターに位置する世界最大のベトナム移民街リトル・サイゴンにて、
ついに長年憧れていた僕のヒーロー、ファム・ホア少尉と、またホア少尉の親友のミミエイガ少佐ともお会いする事が出来ました。



左からご紹介します。

ウィリアム ”ビル” ミミエイガ氏
元アメリカ合衆国海兵隊少佐
悠々と葉巻をふかす姿は豪快で、それでいて優しさの溢れる、見事なまでにアメリカンヒーローを体現するお方でした。
(2015年10月25日訂正。詳細な紹介は『アンクル・ビル/モンスーン少佐』参照)


トム・トラン氏
ウェストミンスターで僕を案内してくれているベトナム共和国出身のおじさん。
トム氏のお父様はベトナム共和国陸軍第21歩兵師団の副師団長でしたが、1975年に共産政権に逮捕され強制収容所に10年間も投獄されました。(それでも病気を患った為、他の高級将校より数年早く釈放されたそうです)
父が囚われ生活の糧を失ったトラン一家は1982年にベトナムから脱出。タイ、フィリピンを経由して1983年にアメリカに定住されました。
トム氏は14歳で終戦を迎えたため軍隊経験はありませんが、お父様を初めとするベトナム共和国軍人を大変尊敬されてます。
またトム氏の息子さんは現在、大学でアメリカ軍のROTC(予備役将校訓練課程)を受講中です。


タイガ・クン
日本からやって来た性欲の奴隷。
ユニバーサルスタジオハリウッドのジェットコースター(ハメナプトラ)で、走行中恐怖のあまり「オマンコやらせろー!」と絶叫し続けたが、周囲にそのような極東の少数言語を理解できる者は誰一人居なかった。


ファム・ホア氏
元ベトナム共和国陸軍特殊部隊少尉。
人呼んでリトル・サイゴンのゴッドファーザー。
サングラスして黒塗りのメルセデスから出てくる姿はベトナム・ヤクザにしか見えない。
実際ホア少尉がアメリカに来た当初は、周りのアメリカ人から舐められないよう、上から下まで映画で見たイタリアンマフィアの服装を完コピして、内緒でピストルまで携帯してたそうです(笑)
でも実はベトナム語の他にフランス語、英語、スペイン語を話せて、しかも本業は世界規模の某有名企業に勤めるエリートエンジニアだということが今回発覚しました。端的に言うと、Windowsが生まれる前からコンピュータ開発に携わっていた人。
アメリカに来てからの話が面白過ぎて、つい戦争中の話を聞くのを忘れてしまいました。
過去記事参照


またこの日は、トムさん、ホア少尉と共に元PRUのホン少尉が経営するベトナム共和国軍専門軍装店へもお邪魔しました。
元共和国軍人および在米二世、三世のベトナム共和国市民向けにリプロ軍装を作成・販売するお店です。
マジで動悸息切れするくらい素晴らしい、夢の中にいるような気分になるお店だったので、後日詳しいレポートを書きます。
  


2015年01月23日

ホア少尉の写真

※2022年12月2日更新


当ブログではお馴染み、『NKTおじさん』ことファム・ホア(Phạm Hòa)少尉について。
これまでも何度か氏の来歴をご紹介しましたが、今回は氏のブログに掲載されている写真をいくつかご紹介します。
(つまり勝手に転載してる形だけど、あの人も僕の写真やイラストを転載してるので、まぁいいかな~と)
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2014年07月06日

祝日とパレードとクーデター

※2023年10月7日更新

 どこの国にも建国記念日や独立記念日など、国の成り立ちと繁栄を祝う国家の祝日がありますね。ベトナム共和国にももちろんそう日があり、首都サイゴンでは華やかな軍事パレードが執り行なわれました。
 南ベトナムの軍装を調べるに当たり、このパレードの映像というのはこの上ない重要な資料だったりします。軍のほとんどの部隊が勢揃いしていますし、いろんな制服が見れますし、なにより日付・場所がハッキリしているので、文句なしの一次史料なんです。
 しかし実は、そのパレードが行われる日付と祝う対象は、共和国の20年の歴史の中でいくつか変更がありました。今回は、そのパレードが行われた3つの祝日を、Youtubeに上がっている映像と共にご紹介します。


1955年~1963年:10月26日 国慶の日(共和国宣言記念日)

 国慶の日(Ngày Quốc khánh)は1955年10月26日、初代総統ゴ・ディン・ジェムによって『ベトナム共和国』の成立が宣言された、実質的な独立記念日です。
 第一次インドシナ戦争が終結しベトナムが南北に分断された翌年の1955年当時、ベトナム国(南ベトナム)は1949年に制定されたフランスとの独立協定の下で阮朝最後の皇帝バオ・ダイが国長を務めており、実質的には依然フランスの属国という地位でした。
 これを憂いたベトナム国首相ゴ・ディン・ジェムは、アメリカの支援を受けてバオ・ダイの追放とフランスからの完全独立を画策します。そして同年10月23日に行われた国民投票(1955年国民投票)により、フランスの傀儡だったバオ・ダイを失脚させる事に成功。10月26日に自ら初代総統として『ベトナム共和国』の成立を宣言しました。
 また翌年の1956年10月26日には、それまでの独立協定を破棄してベトナム独自の新憲法(56年共和国憲法)を公布し、駐留していたフランス軍も完全撤退することで名実共にフランスからの独立を果たします。このジェムの無血クーデターは、フランスの撤退ムードに乗じて犠牲者を出すことなく南ベトナムの独立を成功させた見事な政略だったと言えるのではないでしょうか。

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2014年05月16日

クリパス速報

いっこうにアップロードするフィルムの質と量に衰えを知らないYoutubeチャンネルCriticalPast(以下クリパス)。
ホントありがたいことにほぼ毎日新しいフィルムを十数本アップロードしているので、ボヤボヤしてると良い映像を見逃してしまいそう。だから毎日のチェックが欠かせません。
別に、あとから検索すれば良いんですが、あまりにしょっちゅう見ているので、アップされてから最初の再生が僕ということが多くなってきて、なんかクセになってきました。
恐らく撮影した米軍関係者と、クリパスの担当者以外はまだ誰も見た事の無い映像なので、それを世界で最初に見れるのが楽しくてたまらないのです。


海軍司令官チャン・バン・チョン副提督(海軍准将) 1969年11月20日

1966年から1974年まで南ベトナム海軍司令官を務めたチャン・バン・チョン副提督(当時)の動画!今流行の「提督」です!


「なんで海軍司令なのに"副"提督で"准将"なの?」って感じですが、実は南ベトナム海軍では"提督"は役職や称号ではなく、階級の名称でした。
まず、1964年以前の南ベトナム海軍の将官は、中国の伝統的な称号を継承して"都督(Đô đốc)"という階級であり、陸軍・空軍の将官には以下のように対応していました。

准将:なし
少将:準都督(Chuẩn Đô đốc)
中将:副都督(Phó Đô đốc)
大将:都督(Đô đốc)

1964年、この中の準都督(海軍少将)が"提督(Đề đốc)"に改称され、さらに"副提督(Phó Đề đốc)"が准将(代将)として新設されます。

准将:副提督(Phó Đề đốc)
少将:提督(Đề đốc)
中将:副都督(Phó Đô đốc)
大将:都督(Đô đốc)

ただし、南ベトナム海軍の将官の階級は制度上は存在したものの、実際にはその階級を持つ将官は1967年まで存在しませんでした。
1955年のベトナム共和国海軍設立以来、海軍司令官は少佐から大佐が務めており、66年に就任したチャン・バン・チョンも当時大佐でした。
しかしチョンは翌年の1967年に史上初の副提督(准将)に昇進し、更に1971年には提督(少将)の位を得ました。
南ベトナム海軍で提督にまで上り詰めたのはこのチャン・バン・チョンと、チョンから海軍司令を引き継いだラム・ニュン・タンの二名のみです。
さらに提督の上位の副都督(中将)になったのは1975年に最後の海軍司令に就任したチョン・タン・カンのみで、在任期間も終戦までの1ヶ月間ほどでした。
そしてついに、海軍最高位の都督(大将)の階級を手にする者は一人も出ないまま、ベトナム共和国海軍はそのに歴史を閉じたのでした。


チョン提督は今もご健在(なはず)。
2011年にアメリカ・カリフォルニア州で開催された南ベトナム海軍士官候補生アソシエーションのイベントで講演された際の映像です。





地方軍カントー訓練基地(1967年5月6日)

先日も地方軍(DPQ)の訓練の様子を載せましたが、また新しい動画が出来ました。
徒手格闘訓練のキャプションには『空手』って書いてあるけど、韓国人インストラクターが教えているとも書いてあるので、正しくはテコンドーでしょう。











CIDGキャンプ・ストライク・フォース

軍服・ブーツの支給(1963年8月5日)




キャンプの設営(1963年8月7日)






ジャライ族中隊(1966年2月18日)




デガ村落への訪問医療支援(1966年2月19日)



こうした人道支援による地域住民との協力関係の維持は、国境地帯をベトコンから防衛するCIDG計画の肝であり、グリーンベレーおよびLLDBにとっては戦闘以上に重要な任務の一つでした。



11月1日パレード(1965年11月1日)

1963年11月1日に軍部がクーデターでゴ・ディン・ジェム政権を打倒した事を記念する軍事パレードの様子です。







軍旗の後、士官候補生よりも先に民族衣装を着たCIDG兵士が行進している事に注目!




男性だけでなく女性も居ますね。女性はCIDGと言うより、普通に人民自衛団(NDTV)という扱いだと思います。
FULROの反乱が起きた翌年という事で、少数民族の地位を認めることでなんとか反乱の火種を沈静化しようとする南ベトナム政府の気遣いと言うか苦心が見てとれます。



今日の衝撃映像:パレードカーにひかれるグエン・カオ・キ首相(1965年11月1日)



首相閣下wwww

多分この運転手はグエン・カン派の残党が差し向けた刺客(笑)
  


2014年04月30日

『黒い4月』サイゴン陥落の日


39年前の今日、1975年4月30日。
ベトナム共和国(南ベトナム)の首都サイゴンが陥落し、15年間続いたベトナム戦争が終結しました。
それは同時に、祖国と自由のため戦った数万人の南ベトナム国民が、帰るべき祖国を失った瞬間でもありました。
この忌まわしい4月の出来事を、アメリカに渡った南ベトナム難民たちは『黒い4月(Tháng Tư Đen)』と呼び、ベトナム民族の歴史を物語る忘れ得ない日となっています。
そして終戦から39年目の今年も、アメリカ・カリフォルニア州ウェストミンスターのリトル・サイゴンで、戦没者と亡き祖国に思いをはせる黒い4月追悼式典が厳粛に行われました。
(4月30日は平日なので、式典は直前の休日である4月26・27日に行われました。)
僕も遠く離れたここ日本から、あの戦争に人生を奪われた幾多の人々へ哀悼の意を表したいと思います。


詳細はファム・ホア少尉(NKTおじさん)のブログで見ることが出来ます。


サイゴン陥落の経緯

 1975年4月末。南ベトナムの首都サイゴンは共産軍(解放戦線という体だが、実態は南侵した北ベトナム軍)に三方向から包囲されていました。南ベトナム政府はサイゴン占領という最悪の事態を避けるため北側に停戦交渉を求めましたが、北はグエン・バン・チュー政権との交渉を拒否。そのためチューは4月21日に総統を辞任し、副総統だったチャン・バン・フォンが新たに総統に就任します。


グエン・バン・チュー総統の辞任演説(1975年4月21日)

 しかし新総統のフォンもチュー政権の関係者だとして北に拒否され、1週間後の4月28日に辞任します。同日、両院合同議会が全会一致で総統に選任したのが、1963~64年にかけて幾度もクーデターで政権を握り、これで4度目の国家元首就任となる軍の重鎮ズオン・バン・ミン将軍でした。これは交渉の前提条件としてチュー政権関係者の排除を求める北の主張に譲歩したもので、ミンは1965年にチューによるクーデターで失脚して以来チュー政権とは距離を置いていた為、彼が総統ならば北も交渉に応じるのではと期待されたためでした。


チャン・バン・フォンの辞任とズオン・バン・ミン新総統の就任演説(1975年4月28日)

 しかし実際には共産軍の目標はサイゴンの軍事占領であり、北の主張は南ベトナム政府・軍・警察の即時解体という無条件降伏を求めるもので、停戦交渉は拒否されました。この逼迫した状況の中、南ベトナム軍は政府の停戦交渉および一般市民が避難する時間を少しでも稼ぐため、人民自衛団(民兵)も動員して敵のサイゴン突入を食い止めるべく必死の抵抗を続けました。



 一方、民間人のサイゴン脱出は4月初頭から開始されており、アメリカ海兵隊の固定翼機がタンソンニュット空港から5万人以上の南ベトナム市民を国外に脱出させていましたが、タンソンニュット空港は4月28日に共産軍の砲撃を受け使用不能となってしまいました。
 翌4月29日未明には、共産軍は15個師団・兵力20万人でサイゴンへ向け最後の大攻勢を開始しました。これにより市民のパニックは最高潮に達し、タンソンニュットやサイゴン港、アメリカ大使館には共産軍による虐殺を恐れ逃げ惑う避難民が溢れかえって大混乱となり、まさに終末の様相を呈していました。
 同日、固定翼機に代わってヘリコプターによる最後の救出作戦『フリークエント・ウィンド作戦』が開始されました。この作戦で翌日までに1373名のアメリカ人と、5595名のベトナム人がヘリコプターで脱出に成功し、南シナ海上のアメリカ艦隊TF76に収容されました。その際、空母の着艦スペースを確保するため、クルーが人力でヘリを押し出して海に捨てていく様はあまりに有名だと思います。



 4月29日の時点で南ベトナム軍の戦況は絶望的となり、サイゴン陥落は時間の問題となっていました。同日、ズオン・バン・ミン総統は翌30日に無条件降伏を受け入れる事を決意し、各部隊司令官に電話で直接その意を伝えます。そして、それまではなんとしても敵のサイゴン市街突入を防ぐよう最後の総統命令を発しました。サイゴンには現在も400万を越す人々が暮らしており、敵の侵入を許し市内で戦闘が行われれば、確実に多くの市民が巻き添えになるからです。
 これを受けてチャン・クァン・コイ准将指揮の南ベトナム軍第3軍団第3強襲団の残存兵力は、29日深夜から未明に掛けて市内へ進軍する北ベトナム軍に対し最後の強襲を行い、ビエンホア街道の敵を足止めすることに成功しました。しかしサイゴン東部を守る第18師団、北部の第5師団、南西部の第22師団、クチ基地の第25師団は、奮戦空しく30日朝までに次々と壊滅していきました。

 そして4月30日午前10時30分、ズオン・バン・ミン総統はついにラジオ放送を通じて無条件降伏を宣言し、全軍に戦闘停止を下令しました。しかし北側はこれを降伏とは認めず、あくまでサイゴン中心部の軍事占領を目指して進軍し、11時30分頃先頭の機甲部隊が総統府(独立宮殿)に突入します。


正午頃、総統府のベトナム共和国旗は引き摺り下ろされ、代わりに解放戦線の旗が掲揚されます。
そしてミン総統ら政府閣僚は全員逮捕、連行されました。


午後2時30分、共産軍はミン総統をラジオ局へ連行し、予め北側が用意していた降伏声明を読み上げさせます。その後解放戦線はこの無条件降伏の受け入れを表明し、これをもって15年間続いたベトナム戦争は正式に終結しました。


突入から降伏声明までの様子は、戦後ベトナム国防省が製作した映画『サイゴン解放』で非常に忠実に再現されています。
社会主義国のプロパガンダ映画ですが、ロケ地はまさにその場所ですし、映像としての再現度は素晴らしい出来です。(南ベ・米軍の服が変なのはご愛嬌)




  


2014年04月25日

またYoutubeから

空飛ぶ首相 グエン・カオ・キ(1965年)


「お!このB-57、米軍じゃなくて南ベ空軍機だ!」と思ったら、中から出てきたのはグエン・カオ・キww
この人ジェット爆撃機まで操縦してたのかw

南ベトナム空軍司令官であったキ少将はこの年の2月、グエン・バン・チューら軍の若手将軍グループと共にクーデターを実行します。(1965年クーデター)
当時南ベトナムは国家評議会議長ファン・カク・スーを首班とする文民政府がようやく復活したばかりでしたが、実際には先の権力者グエン・カン大将が政治を牛耳っており、カン大将の排除はアメリカの意向でもありました。
そしてクーデターの結果、カン大将およびその一派は失脚。6月にはグエン・バン・チュー中将が国家元首である国家評議会議長へ、グエン・カオ・キ少将が首相へと就任したのでした。(1967年からはチューは総統、キは副総統となる)
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2014年04月07日

ナンバーテンブルース さらばサイゴン

ベトナム戦争最末期の1975年、全編南ベトナムロケで製作された幻の日本映画が40年の時を経てついに公開!

『ナンバーテンブルース さらばサイゴン』



脚本・監督は「修羅雪姫 怨み恋歌」を執筆した長田紀生、撮影は椎塚彰がそれぞれ担当。
諸事情により未公開となっていたが、国立フィルムセンターに所蔵されていたネガと0号プリントを元に2012年10月にデジタル編集の上、修復完成。
2013年にロッテルダム国際映画祭で正式招待作品として上映された。
2013年9月21日より、広島県尾道市、福山市で開催された「お蔵出し映画祭2013」にて上映。

世界各国の映画祭で"奇跡"と謳われた幻の邦画が、40年の時を経て待望の劇場公開!­停滞する日本映画に痛烈な一撃を放つ!
4月26 日(土)テアトル新宿にてロードショー!

【物語】 
日本人よ、お前は一体どこへ行こうとしているのか?!
1975 年、南ベトナム。日本人商社員・杉本俊夫はテト(旧正月)で賑わうサイゴンの街での勝­手気ままな生活を存分に楽しんでいた。悲惨な戦争は今も続いているが、所詮俺には関係­ない。だが、ある日、ふとした行きがかりから、彼は現地雇いのベトナム人を殺してしま­う。金の力にまかせ気ままに暮らしていた杉本の人生が一転する。殺人者となり追われる­身になった杉本の暴力と犯罪が更にエスカレートし、遂にはベトナムからの脱出を企てる­のだった。友人で戦場カメラマンの太田の車を奪い、一路北端の町フエへと向かう。同行­するのは、杉本の恋人ランと、旧日本兵とベトナム人との混血として生まれたタロー。ベ­トナム全土に戦火が渦巻く中、杉本の車は北へと突っ走る。

【出演】川津祐介、ファン・タイ・タン・ラン、磯村健治 他
【監督・脚本】長田紀生
【プロデューサー】磯村健治
【配給】プレサリオ


という訳で、4月26日にテアトル新宿に見に行こうと思います。
戦争をテーマとした映画ではありませんが、あの1975年4月30日の敗戦で全てが変わってしまう前のベトナムをロケ地としている、数少ない日本映画の一つです。
1949年から1975年まで存在したベトナム国・ベトナム共和国という国家の歴史に魅入られた僕とっては、この映画は貴重な映像資料とも言えます。


この映画でヒロインを演じた歌手・女優のタン・ラン(Thanh Lan/本名ファン・タイ・タン・ラン)さんは今もご健在で、米国カリフォルニア州にお住まいです。
彼女は南ベトナム時代、ベトナム人なら知らぬ者は居ないほどのトップスター歌手兼女優でした。
また当時は日本のミュージシャンとも積極的に交流しており、ヤマハが主催した第1回東京国際歌謡音楽祭でがファイナリストに勝ち残ったそうです。
日本映画に出演したのもその縁かもしれませんね。


ランさんも他の南ベトナム難民たちと同様に、敗戦とともに祖国を追われアメリカに移り住みました。
しかし、アメリカに渡ってからもベトナム移民社会における彼女の人気は絶大で、ランさんはアメリカでも歌手・女優業を再開しました。
そして、言葉の通じない見ず知らずの土地で一から人生をやり直ざるを得なかったベトナム移民たちの心の支えとして、40年近く経った現在も精力的に活躍されています。
むしろ芸歴はアメリカに渡ってからの方が長いので、もはやベトナムの歌手というより、ベトナム系アメリカ人歌手と言った方が正しいかも知れません。

2013年、封印されていた過去の出演作『ナンバーテンブルース さらばサイゴン』が38年の時を経てついに完成しました。
この映画は各国際映画祭で賞賛を得、女優タン・ランの名は再び国際社会の脚光を浴びることとなりました。
今月4日には、カリフォルニアのベトナム移民向け地方局"TVベトナム(NGƯỜI VIỆT TV)"にランさんが出演し、この映画の思い出を語っています。
(僕はベトナム語分からないのですが、途中NHKがどうこう言ってるので、日本での音楽活動の事も話しているようです。)




  


2014年01月17日

LDNN最強の男 レ・ディン・アン伝説 その1

※2022年10月22日更新

南ベトナム海軍のUDT/SEAL部隊"LDNN"のネタをリクエスト頂いたので、洋書には載っていなそうな人物のお話をご紹介します。

LDNN創設メンバーの一人、レ・ディン・アン(Lê Đình An)氏の自伝を要約しました。

LDNN時代のアン氏(左端) 1966年


前半は海軍入隊前に打ち込んでいた格闘技やボディビルの話がメインなので、いくらか話を端折ってます。
(ベトナムの伝統武術、および格闘家としての見解が細かく書いてあるので、それはそれで面白いんですが)

とにかくこの男、凄いんです。
なんか、破天荒と言うか、無茶苦茶と言うか。
まるで武井壮。いや、それ以上のリアル百獣の王ですよ。

どこの国も、UDTとかSEAL等の"海の男"系って、頭おかしいんじゃないかってくらい異常にタフネスを追求した脳筋人間兵器を保有していますが、南ベトナム海軍にもやっぱり居たんですね・・・
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2013年12月05日

ベトナム共和国軍戦友会フィリピン台風義援金

 去る12月3日、NKTおじさん(ファン・ホア元少尉)らを中心とする在米南ベトナム軍人らは、11月にフィリピンで発生した台風30号"Haiyan"による被害の救済のため、ロサンゼルスのフィリピン領事館にて義援金の贈呈を行いました。この義援金はホア少尉を発起人として79名の元軍人から計6,015ドルが提供され、ベトナム共和国軍戦友会(Republic Of Vietnam Armed Forces Veterans and Friend)名義でフィリピン赤十字に贈呈されました。贈呈式には代表としてファン・ホア氏(元NKT/STD作戦局)、ダン・クェン氏(元空軍/NKT第219キングビー飛行隊)、ダン・フン・ソン氏(元空軍)が出席し、フィリピン領事館ヘレン・バーバー・デ・ラ・ヴェガ総領事、マリー・ジョイ・B・ラミレス副領事が感謝を表明しました。

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2013年12月03日

【訃報】トン・タット・ディン中将

※2024年4月13日更新
※2024年6月26日更新


 2013年11月21日、アメリカ・カリフォルニア州サンタ・アナにて、元ベトナム共和国陸軍中将トン・タット・ディン氏がお亡くなりになられました。享年87歳。
 ディン中将は1963年11月に発生したゴ・ディン・ジェム政権に対する軍事クーデターの中心人物として有名な人物です。


【ディン中将の来歴】

 トン・タット・ディン氏は1926年11月20日、仏領インドシナ(アンナン)フエに生まれる。父親が早くに亡くなり、その後ダラットで厳格な教育を受けて育つ。
 1945年8月、日本軍の降伏に伴いベトミンによる独立宣言とフランス軍のインドシナ再占領が始まると、強い愛国心を持っていたディンは愛国学生運動に参加してベトミンの政治委員となった。しかしこの運動はすぐさまフランス軍に制圧され、ディンは故郷のダラットに逃れた。1948年には、フランスの捜査でディンのベトミンへの参加が発覚し逮捕されそうになるが、"パスツール研究所(フランスの国際医療機関)"の研究員をしていた兄弟が身元を引き受け、今後ベトミンに関わらない事を条件に釈放された。
 ダラットの実家に戻ってからの生活の中で、ディンは旧知の仲でフランス軍第3ベトナム歩兵連隊の参謀長をしていたド・マウ(後の南ベトナム軍少将)と会い、彼に感化されて1948年にフランス軍ベトナム歩兵連隊に入隊した。

▲ド・マウ少将(写真は1964年以前)
マウはディンと共に1963年のクーデターの中心人物となる。

 ベトミンから一転してフランス軍人となったディンは、フエ市モンカにて下士官訓練コースを修了した後、フエ士官学校第一期に入学。フランス軍による士官教育を受け、一年後に同校を卒業してベトナム国軍中尉に任官。その後フランス本土のソミュール騎兵学校に留学する。
 戦後はベトナム共和国軍第2歩兵師団長、第2軍団司令官などを歴任し、1962年12月にはゴ・ディン・ジェム総統の弟で政府中央顧問のゴ・ディン・カンによって第3軍団/第3戦略地区司令官ならびにサイゴン・ザーディン省知事に選任された。
 1963年5月以降、極端なカトリック優遇政策を行うジェム政権に反発して各地の仏教徒が大規模な抗議活動を開始し、政権側も戒厳令を敷いて強硬な弾圧を行ったことから南ベトナムは"仏教徒危機"と呼ばれる騒乱状態に陥っていた。この中でディンは、サイゴン・ザーディン省知事として実力による仏教徒の制圧を行った。

▲戒厳令下のサイゴン市役所で記者会見を行うディン少将(当時) 1963年9月
この時点では騒乱を「ベトコンの扇動によるテロ活動」と断じ、ジェム政権を擁護する立場だった。

 しかし、この弾圧に国際世論はおろか南ベトナム軍内部からもジェム政権への反発が強まり、アメリカCIAが支援する形で軍部によるクーデターが計画された。1963年11月1日、首都サイゴンを掌握していたディンはズオン・バン・ミン将軍と共にジェム政権への軍事クーデターを実行した。翌11月2日、ディンは中将に昇進し、新たに発足したミン将軍を首班とする新政権、革命軍事委員会の副議長および内務大臣に就任した。
 クーデター後に発生したズオン・バン・ミン将軍とグエン・カン将軍の政権争いの中で、ディンは1964年にカンの逮捕を実行するなどミンの片腕として新政権の安定を目指した。
 ディンは1965年には国軍総監および軍事教育総局(TCQH)局長に就任したが、中央政府の政変に敗れ、1966年4月9日から5月15日までの約1ヶ月間はグエン・バン・チュアン少将と交代する形で第1軍団/第1戦略地区司令官に左遷された。その後もディンが中央政府に返り咲く事は敵わず、1966年7月には"特別規律審議会"によって軍を懲戒免職された。
 こうして軍でのキャリアは潰えてしまったディンであったが、翌67年に南ベトナム上院議員選挙に出馬、当選を果たした。国会議員となったディンは上院国防委員会委員長に就任し、1973年にも再選して終戦まで上院議員を務めた。
 敗戦直前の1975年4月29日、ディンは南ベトナムから避難し、アメリカ・ヴァージニア州に渡った。その後カリフォルニア州ガーデングローブおよびウェストミンスターにまたがるベトナム人街"リトル・サイゴン"に居住した。

▲晩年のディン中将
南ベトナム最高位の"国家勲章・二級"(Đệ Nhị Đẳng Bảo Quốc Huân Chương)受賞者でもある。


 ディン中将の葬儀はカリフォルニア州ウェストミンスターにて11月29日に執り行われ、親族ほか多数の南ベトナム軍・政府関係者が参列し、英雄の死を悼みました。
 またディン中将はダラット国家武備学校(VBQG)の前身であるフエ士官学校の栄光の一期生であり、軍事教育総局(TCQH)局長でもあった事から、VBQGアソシエーション(緑色の制服)が中心となって最期の栄誉礼を捧げた模様です。

葬儀の様子はNKTおじさんが撮影され、氏のYoutubeチャンネルにて公開されています。



  


2013年09月21日

共和国リーダー伝

よく南ベトナムは政権がコロコロ変わってて誰がリーダーなのか分からないと聞くので、実際どうだったか調べてみました。

【共和国宣言(1955年)以降の歴代国家元首】

ゴ・ディン・ジェム(総統1955年10月~1963年11月)
ズオン・バン・ミン(革命軍事委員会委員長1963年11月~1964年1月)
グエン・カン(国長1964年1月~1964年2月)
ズオン・バン・ミン(共和国指導者1964年2月~1964年8月)
グエン・カン(1964年8月)
暫定指導委員会(元首不在1964年8月~1964年9月)
ズオン・バン・ミン(暫定指導委員会委員長1964年9月~1964年10月)
ファン・カク・スー(国家評議会議長1964年10月~1965年6月)
グエン・バン・テュー(国家評議会議長・総統1965年6月~1975年4月)
チャン・バン・フォン(総統1975年4月)
ズオン・バン・ミン(総統1975年4月)
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Posted by 森泉大河 at 23:05Comments(2)【ベトナム共和国軍】1954-1975人物

2013年09月11日

カウボーイ

僕には、この趣味をする上で最も影響を受け、バイブルと崇めている本があります。その名も、
ジム・モリス著「グリーン・ベレー -私はベトナム戦争を戦った-」(原題:WAR STORY)

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2013年09月01日

NKTおじさん 

今回は、僕が『NKTおじさん』と呼んでいる、アメリカ在住の元南ベトナム陸軍少尉、ファム・ホア氏についてご紹介します。


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