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2015年10月04日

タイで買った物

※2023年3月15日更新

載せるの忘れてたのでリストアップしておきます。

・民生ダック迷彩ベースボールキャップ(ビンテージ生地リメイク)
民生インビジブルリーフ迷彩ベトナム軍パンツ(新古品)
・タイ陸軍ベレー(新品)
タイ タハーン・プラーン SSI兼ベレー章(新品)
・タイ軍アーモバンダリア(60~70年代)
・タイ警察ベレー(新品)
・タイ警察空挺資格章3級(新品)
タイ軍/警察 黒色ベースボールキャップ(新品)
・民生レンザティックコンパス(新品)

タイの友達から記念にもらった物

タイリーフ迷彩アーモベスト(70~80年代)
タイ タハーン・プラーン513部隊 SSI(新品)
タイ タハーン・プラーン "勝利者"タブ(新品)

 見ての通り、タイ軍メインで買ってきました。ナム戦関係での収穫は、程度の良い民生インビジブルリーフのパンツと、タイ軍・警察向け黒キャップくらい。キャップはベトナム共和国軍コスプレに使うため何年も前から代用品を探していましたが、今回ようやくタイで見つけることが出来たました。なにげに今回一番のレアアイテムなので3個ばかし買ってきました。
 あとは大した物見つけることは出来ませんでした。十数年前に豊〇先生が仕入れしていた場所も周りましたが、やはりベトナム戦争時代の物はほぼ全滅ですね。どこ行っても韓国軍の90年代放出品ばかりです。ナム物は、有ったとしても普通のTCUとか、半袖短パンに改造されたERDLとか。また連中も知恵付けてるので、聞いてもいないのに「これベトナム物だよ」と売り込んできます。しかもeBay価格で(笑) 日本で買うよりは多少安いかも知れませんが、別に珍しい物は無かったし、ゴミとして二束三文で売られていた時代を知ってるので買う気にはなれませんでした。
 しかし幸いにも、丁度ラオス内戦や80年代のタイ軍に興味を持ったところだったので、タイ軍関係はそれなりに集まりました。ビンテージではありませんが、コスプレ用なのでこれで十分です。



おまけ 80年代タハーン・プラーン513部隊のカッチョイイ画像

 

そそられます
  


2015年03月06日

最近買ったもの

いつまでもペニス云々がブログのトップにあると僕の上品なイメージに傷が付くので、久しぶりにミリタリーウェアについて。

M65フィールドジャケット
今までM65持ってなかったので買いました。1500円也
かなりボロボロの状態の物を古着屋が補修したもので、継ぎ接ぎだらけのフランケン。直したって大した値段じゃ売れないのに、よくここまで補修したなと思う。
コレクション用にもファッション用にも使えないゴミみたいな服だけど、僕ははなっからベトナム軍風の魔改造するつもりで探してたので、これで十分。
(※基本的にはベトナム軍も米軍から供与されたM65をそのまま使っています。また米軍はベトナム=熱帯というイメージに捕らわれ防寒服の支給が十分ではなかった為、フィールドジャケットに関しては米軍よりもベトナム軍での使用をよく見ます)
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2014年12月29日

今年入手したもの

※2019年11月24日訂正
※2021年12月12日更新

うちのブログはなんかウンチクばかりで、手持ちの軍装品の写真を載せるのをすっかり忘れていたので、年末という事でまとめて書いてみます。

まず今年最もテンション上がったアイテムと言えば、既にこのブログで何度も取り上げていますが、これです!


待ちに待ったベトナム軍2ポケット作戦軍服のリプロが販売されました!!
もう米軍ユーティリティ代用でお茶を濁す必要は無いのです!
これ一着あればもう、歩兵に限らず陸海空軍・地方軍・国家警察・CIDG・NKT(SOGのRT・スパイクチーム)など、60年代のベトナム軍装備がほとんど何でも出来ちゃいます!




フランス軍タイプキャンバスブーツ(リプロ)

同じくCLASSIFIEDさんで扱ってる仏軍タイプキャンバスブーツも、ベトナム軍ブーツへの代用にピッタリなので、購入・改造しました。
ブーツの改造ポイントについては過去記事『MVCキャンプ&撮影会 その2』をご覧下さい。
※ステマじゃないですよ(笑) けど良い物を作ってくれる業者さんは一趣味人として応援したいです



ベトナム軍/インドシナ諸国 日本韓国製キャンバスブーツ

上は代用品でしたが、こっちは資料用に入手した実物。
詳細は過去記事『キャンバスブーツ』参照

 



ベトナム国家警察迷彩ジャケット

警察迷彩ジャケットとしては一般的な、米軍M51フィールドジャケット風の服。
なぜか日本ではこの迷彩が『レオパルド』と呼ばれてるけど、欧米のコレクター界ではレオパルドは『ベオギュン(ベオガム)』を指す言葉ですよね。
この迷彩は見ての通り、まんまミッチェルの茶色側(クラウド)のコピーであり、ベオギュンとは無関係。欧米では『ナショナルポリス』または『クラウド』と呼ばれてます。
まぁ、それも戦後のマニアが名付けたものなので、どれが正しいなんて無いんだけど。
じゃあこの迷彩の本当(ベトナム語)の名前は?と言うと・・・僕もまだ未確認。
現在はベトナム語で『Mây』と表記される事もありますが、これは英語の『Cloud(雲)』を翻訳しただけで、当時使われてた本来の名称とは言えないし。

 



ベトナム軍4ポケット作戦軍服

先輩コレクターからいただいた物。
本当は4ポケットだったけど、おそらく「4ポケットは売れない」という理由でどこかの商売人に下のポケットを取られてしまった哀れな服。
背中側のウエスト調整フラップが、かろうじて4ポケットだった事を物語っている。

 



フランス/インドシナ諸国軍 TAP M47/53降下ジャケット

 

 



ベトナム軍トゥドゥック歩兵学校ベレー

僕は士官学校が好きなので、前々からトゥドゥック歩兵学校(予備士官学校)関連のアイテムを集めてました。
次は制帽と長袖チノの常勤服を揃えたいです。そしていつかは憧れのパレード服を!
トゥドゥック歩兵学校に関する詳細は過去記事陸軍予備士官候補生(SVSQTB)』参照




ベトナム軍軍犬隊腕章

詳細は過去記事『ヘルメットと腕章』参照



ベトナム軍装甲騎兵隊ベレー・下士官用(リプロ)

今年ヤフオクに何度か出品されてたこのレプリカベレーシリーズ、出所不明ながら、けっこう出来が良いんです。
ベトナム製でもけっこうダメダメな物は多いですが、これは誰かちゃんとしたマニアの人が監修してますね。
しかもバリエーションも豊富で、装甲騎兵の下士官・将校用ならまだしも、プレス製の兵用ベレー章まで用意されてるんだからビックリ。
いい買い物しました。



タイ軍TCU風迷彩ジャケット

この服はタイ軍リーフ生地で作られた、いい具合に怪しいTCU風テーラーメイドジャケット。
なにげタイって第2次インドシナ戦争、そして冷戦期の東南アジアのパワーバランスに深く関与していた国なので、最近一気に興味が沸いてきました。
このタイ軍リーフの服は、TCUスタイルは写真では未確認だけど、正規のタイ軍戦闘服スタイルだとこんな感じ。
まぁベトナムやラオス派遣タイ軍SFなら、普通にTCUスタイル仕立てて着てると思います。
パッと見ブラウンリーフっぽいですが、手にとってよく見ると微妙にグリーン系の色合いなんです。
元々米軍の生地ではないので、グリーンなのかブラウンなのかなんて悩むだけ無駄かもしれませんが。



ラオス軍空挺ベレー章(リプロ)


比較的最近作られたリプロです。近々ラオス軍のモン族コマンド部隊のコスプレしようと目論んでます。
ラオス軍の空挺部隊は、フランス軍植民地空挺大隊が育成した組織なので、ベレー章も当時のフランス軍空挺部隊のデザインを踏襲しています。※植民地空挺大隊は第1次インドシナ戦争後に海兵空挺歩兵連隊に改編され、ベレー章のデザインも変更されています。
しかし大きく異なるのが、握られている剣。本家フランス軍では、このベレー章は『サン・ミシェル(聖ミカエル)の剣』を表していますが、ラオス軍ではこの剣が、ラオス王家の紋章であるトリシューラ(三叉戟)になっています。超カッコイイー!!

  



メーカー不明ザーコップ迷彩ベレー(リプロ)

マイクフォースでよく使われてるローカルメイドのタイガーのベレー。
ヤフオクで新品で買いましたが、いったいどこの業者が作った生地なのかさっぱり分かりません。色や作りはいい感じです。
詳しい人に聞いて回ったら、某業者の試作段階の生地がゴニョゴニョされたものでは?等の憶測に行き着きました(笑)



日本製ファーストエイドポーチ風な何か(リプロ?)

僕が愛して止まない、笠敏商店にぶら下がってる謎装備シリーズの一つ。
普通、あんなの誰が買うんだよって思いますよね。
でも急に欲しくなったので、僕が在庫全て買い占めました。
こんな感じにして使ってます。

ちなみに、この時はピストルベルトもキャンティーンケースも日本製。
年々米国製装備の比率が下がってきております。






最後に、今年描いたイラストまとめ





それでは皆さん、良いお年を!
  


2014年10月07日

フランス軍のベレー章など


僕は特にフランス軍マニアという訳ではないのですが、インドシナ諸国を調べてると必然的に興味が沸いてくるものです。
そこで1年ほど前、中田商店でこれらのベレー章が安く出てた時に、とりあえず全種類買っておきました。なので年代とかはバラバラです。

フランス軍 ベレー章など

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2014年10月03日

フランス軍TAP 47/53降下ジャケット



うちのブログは、ベトナム戦争に関する人文系の情報を同好の方々にシェアできたら良いなと思ってやってるものなので、あまり『軍装趣味』っぽい記事が無いですね。
それでも思ってた以上に読んでくれる人が居た事に驚きと喜びを覚えていますが、やはり多くの人が気になってるのは、「南ベトナムの〇〇将軍は今何してる」等ではなく、野戦服や装備などの軍装品である事は重々承知しています。
なので、僕はコレクターではないので大した物は持っていませんが、今回からちょっとずつ、最近入手した軍装品を載せてみようかと思います。

フランス軍 TAP 47/53降下ジャケット

 フランス軍の空挺部隊向け1947年型降下ジャケット(Veste de saut TAP modèle 1947)です。TAP 47は年代毎に服の構造や迷彩パターン(通称リザード迷彩)が徐々に変化していますが、今回譲って頂いたこの服はTAP 47/53と呼ばれる、1953年改良型です。
 TAP 47と言えば第1次インドシナ戦争でフランス軍空挺部隊が使用していたイメージが強いですが、この47/53は戦争の末期に生産された為、完成した服がインドシナに到着した頃には戦争が終結してしまい、第1次インドシナ戦争中に使用された数はかなり少なかったそうです。
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2014年07月24日

キャンバスブーツ

※2021年11月23日更新

キャンバスブーツのコントラクトナンバーと生産国について、認識間違いが複数あったので改めて最新のまとめを『キャンバスブーツのコントラクト/調達局コード』に掲載しました。併せてこちらをご覧ください。

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先日うちに来たキャンバスブーツさん。
片足のみ、しかも4W(約21.5cm)というサイズなので、純粋に資料として買いました。(履けるサイズでも壊れるので履かないけど)
第2次インドシナ戦争で使われたキャンバスブーツとしては、最もオーソドックスな仕様の物だと思います。




コントラクトNo:DA 92-125 FEC-3638
カラー:ブラック
アイレット:7穴
サイズ:4XW (ソールには4WXと表記)

このキャンバスブーツは、ベトナム戦争において、南ベトナム軍またはCIDGが使用した靴として有名だと思います。
デザインは、見ての通り第1次インドシナ戦争期にフランス連合軍が使用した"ブッシュ靴(Chaussures de brousse)"を原型としています。
生産メーカー名の『ベータブーツ』や『パラディウム』と聞けば、馴染み深いと思います。

   
▲第1次インドシナ~アルジェリア戦争期の仏軍ブッシュ靴
仏軍では生地の色はほとんどオリーブ色のみ。細部の形状はメーカーにより様々で、アイレットも5穴~7穴と幅がある

ジュネーヴ協定後も、独立した旧・仏領インドシナ諸国は(もともとフランス連合軍なので)この仏軍ブッシュ靴を引き続き使用していました。
後にアメリカが南ベトナム・ラオスへの軍事援助を本格化すると、アメリカ軍は支援物資としてこの仏軍ブッシュ靴のコピー品を第三国で生産し、同盟軍への大量供与を開始します。
こうして生まれたキャンバスブーツは後に、ARVNリュックやCISO発注品と同様にラオスやクメールなど周辺の親米国政府軍にもアメリカ軍からじゃんじゃん供給されていったので、これらの装備品はベトナム限定ではなく、もっと広範囲に東南アジア(インドシナ諸国)向けの反共軍事支援の一つだったと言えると思います。
この事からも、ブーツそのものには(おそらく単にメーカー側の設備の都合で)いくつかバリエーションがありますが、それらに南ベトナム政府軍向け・CIDG向けという区分は存在しなかったと考えます。

※北ベトナム軍もフランス軍の装備を接収してそのまま使っていたため、親米国と同様に仏軍ブッシュ靴のコピー品を使っていました。


日本の安全靴・作業靴メーカーが作った物もあるので、戦後日本国内でこの靴が大量に売られていたという話はよく耳にします。大抵は東南アジア向けのサイズなので、小さすぎて一般的な日本人男性の履けるサイズではなかったようですが。
ただし、そのメーカーを特定できるようなスタンプ等は、ほとんどの靴に入ってないようです。メーカー側が、戦争に使う物に自社名を入れたくなかったのか。またはアメリカ側が日本の立場を考慮し、あからさまに日本製だと分かるようなスタンプなどは入れないよう指示したのか。(コントラクトナンバーが入ってる時点で秘密裏に作られた物ではありませんが)
アメリカ国防総省が公に日本企業に発注した物品なので、もしかしたら国立公文書館とかに当時の書類が残ってるかもしれないですね。

さて、本題のブーツのコントラクトナンバーを見ていきましょう。
まず、最初に挙げた僕のは『DA-92-125-FEC-3638』。後述する125系の物です。
がしかし、僕が持ってるはこの1足のみなんです。(こないだ初めて買ったw)
なので比較検証のため、以下アメリカのミリタリーマニアフォーラム『Wehrmacht-Awards.com Militaria Forums』内のスレッド『Boots in the ARVN - Vietnamese footwear』に投稿された、各コレクターの方が所有するブーツの画像を引用・リンクさせてもらいます。


DA-92-557系

DA-92-557-FEC-36057 (オリーブ, 7穴, 3W)


DA-92-557-FEC-36626 (オリーブ, 7穴, 4W)


DA-92-557-FEC-37113 (オリーブ, 7穴?, 6W)


DA-92-557-FEC-37315 (ブラック, 7穴, 6W)



DA-92-557-FEC-96626 (オリーブ, 7穴, 5W)


DA-92-557-FEC-96627 (オリーブ, 7穴, 5W)


DA-92-125系

DA-92-125-FEC-2895 (ブラック, 7穴, 4W)


DA 92-125 FEC-3638 (ブラック, 7穴, 4W)
↑うちのブーツと同じコントラクトナンバーで、仕様もスタンプに至るまで全く一緒です。(サイズ違い)


DAJB03系

DA-92に次いで散見されるのが"DAJB03-xx-C-xxx"というコントラクトナンバー。
外観は大差ありませんが、アイレットが7穴だけでなく、8穴のタイプもあるのが特徴といえば特徴でしょうか。

DAJB03 68-C-451 (ブラック, 8穴, 7W)


DAJB03-67-C-0291 (ブラック, 7穴, 7W)


いつもお世話になってる似非ミリタリー日誌様も、以下の2足のDAJB03系をお持ちです。
DAJB03-68-C-150 (ブラック, 8穴, 10W)
DAJB03-67-C-0294 (ブラック, 7穴?, 4XW)



KO/3259系?

こちらは他のキャンバスブーツと明らかに構造が異なり、サイドにジャングルブーツのような補強が付いてるタイプ。
『Wehrmacht-Awards.com Militaria Forums』では、このブーツは南ベトナム製で、1974年契約と紹介されていました。

KO/3259 2-8-74 (オリーブ, 7穴, サイズ5)
"PHAM THI KINH"というベトナム語らしき文字がスタンプされています。(意味は分かりませんでした。メーカー名?)


KO/3259-2-8-74 (オリーブ, 7穴, サイズ5)
※もしかしたら上のと同じ個体かも。


こちらはスタンプ無しらしいですが、形状は同じ物(オリーブ, 7穴)


Q州の一匹狼様がブログで紹介していらしたのも、このタイプなのですね。(今までこういうものが存在する事を知りませんでした)

ちょっとサンプルが少ないので何とも言えないですが、もし仮にこのデザインのブーツは全て南ベトナム製で、戦争末期の1974年頃にのみ作られた物であれば、戦後流通している数がかなり少ないのも変ではないですよね。

以上、第2次インドシナ戦争期の米軍援助キャンバスブーツについてでした。




【番外編】

以下は第二次インドシナ戦争で使用されたモデルではない(と思う)ので軍装品としての資料とは言えないのですが、ちょっと面白い物なのでコレクションとして持っているものです。


フィリピンの化学製品会社が作った物で、ソールにあるBANTEXのブランドロゴは現在と同じです。
日本の作業着屋で売られていた物が、巡り巡って僕のところに来ました。製造年は不明ですが、そこそこ古そうです。
外観は、見ての通り、丈が異様に長い。カッコイイ~w
足の内側のくるぶしっぽい部分(内果と言うらしい)に保護用のゴムは付いていないですが、ラバーは上のキャンバスブーツと全く同じ構造です。
なんか、このメーカーも戦争中米軍からブーツ生産を受注していて、その型をそのまま使って作業靴として売っていた気がしてなりません。


中国製

タグから見て、ここ20年くらいの比較的新しい物で、日本国内向けに生産されたものです。リサイクルショップで買いました。
いかにも中国の軍用ズックっぽい緑色の生地なので、パッと見北ベトナム軍キャンバスブーツのような印象を受けますが、北ベトナム軍ブーツ見られる土踏まず部分のラバーや両サイドの斜め補強はありません。
シハヌーク政権時代のクメール王国は中国とも仲が良かったので、中国に仏軍ブッシュ靴のコピー品を作らせると、こんな感じになりそう。

▲これは70年代のクメール共和国時代の写真ですが、よく似た靴が使われています。


中国製

現代も販売されている、仏軍ブッシュ靴というかパラディウム社のスニーカーのコピー商品。僕が持ってるのはちょっと古いモデルで、現行モデルはかかと部分にMAG☆FORCEとダッサいロゴが入ってしまうようです。
てゆーかこれ、ありえない間違えしてるんですけど。横の丸いゴム板が、足の内側ではなく外側に付いてるんですけど・・・。コンバースじゃないんだよ・・・
今通販でこの靴の画像見ると、ゴムはちゃんと内側に付いている。前はみんな逆に付いてたのか?それとも僕のだけ不良品なのか?
とにかく、これ買った当時の僕は知識が無くて、これが変な事に気付かなかった。無念。
  


2014年06月05日

ヘルメットと腕章

先日、南ベトナム軍の軍犬隊(QK)の腕章を入手したので、ついでに軍犬隊同様、部隊専用のヘルメットマーキングと腕章を着用する部隊をまとめてみました。

まずは言わずと知れた


軍警隊(Quân Cảnh, QC)

第2軍警大隊に逮捕される兵士(恐らくCIDG)


軍警隊はその名の通り軍の規律を監督する部隊で、また国家警察と共同で後方地域の保安・治安任務にも当たりました。
軍警隊司令部は総参謀部の直下に置かれ、各部隊の命令系統から独立した機関でした。
軍警隊は軍管区ごとに各1個大隊が配置され、I~IV軍団(軍管区)は第1~4軍警大隊が、首都特別管区は第6軍警大隊が担当しました。また、第5軍警大隊は即応予備部隊として要請に応じ全国に派遣されました。
同時に、各歩兵師団や海軍、空軍などには専属の軍警中隊(もしくは分遣隊)が常駐します。
この他、軍警隊は全国に5ヶ所の捕虜・共産兵収容所を運営していました。(ベトコンは外国軍ではなく国内のテロリスト・政治犯なので捕虜ではなく犯罪者と扱われるが、一般犯罪者とは区別され軍警隊が管理する)

※2017年6月5日修正
こちらに新たに入手した資料も交えた部隊の一覧を掲載しました。

ちなみに軍警隊の採用基準は身長168cm以上、体重65~70kgの範囲内と、当時のベトナム人としてはかなり大柄な(かつ太ってはいない)人しか入れませんでした。


※2019年10月9日訂正

軍犬隊(Quân Khuyển, QK)
軍規員(Quân Kỷ, QK)

ヘルメット・腕章に"QK"と入る部隊は軍犬隊ではなく、同じくQKと略す軍規員(Quân Kỷ)という職種でした。
軍法に則り捜査・逮捕権を持つQC(軍警隊)ほど強い職権を持つ組織ではなく、隊内の秩序維持を担う風紀委員的な役割の隊員だったそうです。


ヘルメットのペイントや腕章は知っての通りアメリカ陸軍憲兵隊(MP)から影響を受けたものですが、南ベトナム軍では軍警隊に限らず、その他の警務・保安系の部隊でも使われていました。
その一つが軍犬(軍用犬/K-9)部隊です。軍犬隊も軍警隊のようにヘルメットにQKのペイントや腕章を使っていますが、
軍警隊の配下というわけではなく、国防省内の軍犬課(Nha Quân Khuyển)という部署が所管する独立した組織です。
部隊としては軍犬訓練補充センター(Trung tâm Huấn luyện và Bổ sung Quân khuyển)と各軍犬センター(Trung tâm Quân Khuyển)から構成されており、軍用犬・調教師の育成と共に、各部隊・軍警・警察の軍犬担当者への教育も行っていたようです。

▲そしてこれが今回入手したQKの腕章。僕は犬が好きなので、南ベのワンちゃんグッズとして買いました。
僕はあまり保安系部隊のグッズを集める気はなかったのですが、QKなら軍犬隊そのものに所属していなくても、各部隊の軍犬部隊という事でQKの腕章を付ける事は有り得そう。
つまり腕章さえあれば、ヘルメットとか革のベルト一式とか用意しないでも、手持ちの服に付けるだけででお手軽にコスプレできるんじゃないか?という淡い期待で購入w



統制員(Kiểm Soát, KS)


『統制』とは軍警や軍犬のように独立した部隊ではなく、軍隊の指揮系統において作戦の遂行を監視・監督する役職の事で、アメリカ軍で言う"Control"に当たります。
南ベトナム軍はもともとフランス軍の一部であったため、1950年代まで軍の指揮システムは完全にフランス軍のスタイルを引き継いだものでした。
しかし60年代に入りアメリカによる援助が本格化すると、南ベトナム軍はアメリカ軍との共同作戦を念頭に置き、軍事指揮システムを細部に至るまでアメリカ軍式(つまりNATO軍標準システム)に変更、統一化を目指すようになります。
この統制員も、そうしたアメリカ軍式指揮システムの導入によって生まれた部署ではないかと推測しています。



国家警察 警ら隊(Tuần Cảnh, TC)



左端の『TC』と書かれたヘルメットを被る二人は、一見上で紹介した軍の保安部隊と同じように見えますが、実は彼らは軍人ではなく警察官です。
よく見ると肩の階級章や右袖の分署パッチからも彼らが警察官だという事が分かります。
国家警察の中で軍隊っぽい見た目の部署と言うと『野戦警察(CSDC)』が有名ですが、他にも『河川警察(GC)』などは出動時は野戦服をメインに着用しており、TCもまた軍の軍警隊と共に都市部の治安任務にあたる武装警ら隊と言ったところのようです。



保安隊(An Ninh, AN)


まだ正確な情報は得られていないのですが、恐らく基地警備を行う保安隊だろうと思われます。
軍法に基づき司法・捜査権を持つ軍警隊とは異なり、保安隊は純粋に基地内外の警備を任務としていたようです。

※2017年6月6日訂正
正しくは、保安隊は政治戦総局軍事保安局(Cục An Ninh Quân Đội)に所属する防諜部隊で、軍内部のスパイ摘発などを任務とする内務調査部隊でした。



騎兵科(Kỵ Binh, KB)



保安部隊だけでなく、兵科部隊も儀仗の際に部隊ペイントが施されたヘルメットを使っていたようです。
横のラインが騎兵(機甲)科のイメージカラーであるブルーになってますね。腕章は見られません。
ただし、僕が見たことあるのは騎兵だけで、他の兵科でも同様に使われていたかは未確認です。



教育隊 / 軍事教育総局(Tổng Cục Quân huấn) 

▲ヴァンキェップ国家訓練センター(Trung Tâm Huấn Luyện Quốc Gia Vạn Kiếp)の職員

『軍事教育総局』は士官学校を含む各種学校・訓練センターを所管する国防省・総参謀部の部局で、要は教育隊の教官・助教・職員です。
これら教育隊(一部の学校で学生も)では、学校ごとに独自のマーキングのヘルメットが使用されました。ただし教育隊も腕章は付けません。
南ベトナム軍の教育隊は一般兵が訓練を受ける国家訓練センターだけで全国に9ヶ所、士官学校(軍医・政治戦・警察含む)が全軍で8校、その他各種兵科学校や軍事(指揮幕僚)大学、語学学校など多数あるので、個々の解説はまたの機会に。



よく分からない部隊


右の二人は正面の文字が見えず正体不明。緑色っぽいラインが入っていますね。
部隊章は『首都特別管区隊』に見えなくもないんだけど、なんか違う気もする。
側面の文字は普通、その部隊の中での部署を示すので、"BT"と略す部署もしくは地名だと思いますが、それが何なのか思いつきません。

※2017年6月6日訂正
キャプションにファンティエットでの撮影とある事から、BTは同市を省都とする『ビントゥアン省』の略と思われると、情報を頂きました。恐らくそれで間違いなさそうです。ただし、地名が分かっただけで具体的にどういう組織なのかは依然不明なので、引き続き調べていきます。


PV(空軍?)


これははっきり"PV"と書いてあるけど、何の略なのかさっぱり不明。ただし、胸に空軍を示すパッチが付いています。
隣にいる軍警も胸に空軍パッチを付け、ヘルメットの側面にも20~という部隊番号が見えるので、この軍警は空軍に派遣された第203軍警中隊という事が分かります。
と言う事は、一緒に写っているこのPVは、空軍側の保安要員とか?
今後も調べていきたいと思います。

※2017年6月6日訂正
PVは『防備(Phòng Vệ)』の略で、空軍基地の地上警備隊であるとの情報を頂きました。なるほど~
  


2014年02月17日

ECWCSのトラウマ

もう10年も前の話ですが、当時高校生だった僕は、部活動でワンダーフォーゲル部(実質登山部)に所属していました。
入った理由は、なんか山登りが軍隊っぽくてカッコ良かったからw

そんな動機なので登山用の装備もそっち系で、健全なスポーツ活動の中、一人異臭を放っていました・・・

  続きを読む


2013年11月08日

予備士官候補生(SVSQTB)

※2024年2月3日更新
2024年3月19日更新
2024年4月13日更新

こちらは我が家にある、ベトナム軍の予備士官候補生(第一期教育期)の肩章2種です。

左が勤務服用のスリーブ式肩章、右が準礼服用のパッド式肩章です。


今回はその予備士官候補学校がどんな歴史を辿ったか分かる範囲でまとめましたので、どうぞご覧下さい。


トゥドゥック予備士官学校

 第1次インドシナ戦争中の1949年、フランスはベトナム人の独立運動を沈静化させフランスのコントロール下に置くため、阮朝最後の皇帝バオ・ダイ(保大帝)を首班とする"ベトナム国(Quốc gia Việt Nam)"を建国した。しかし首都サイゴンのあるコーチシナ地方は、依然フランスの直轄領としてベトナム国政府に対し自治権を有するなど、実質的にフランス領インドシナ連邦の一部である事に変わりはなかった。
 ベトナム国には、建国と同時にベトナム国軍(Quân đội Quốc gia Việt Nam)が設立された。ベトナム国軍は、それまでベトナムに駐屯していたフランス植民地軍を名目上改編しただけで実質的にはフランス軍そのものであったが、最終的には総兵力23万人の巨大な組織に成長し、インドシナ平定のため編成されたCEFEO(極東フランス遠征軍団)の中核を成した。

▲バオ・ダイ帝の閲兵を受けるベトナム国軍第1空挺大隊(1951年)

 戦争が長期化していく中で、ベトナム国軍(=植民地軍)を指揮するフランス人将校がいずれ不足する事は明らかだった。それを補うため、フランス軍はベトナム兵を将校として教育するダップダ・ベトナム士官学校(Trường Sĩ quan Việt Nam Ở Đập Đá)を1948年に設立していた。ダップダ校は1950年にダラットに移転し、ベトナム国陸海空軍の幹部将校を育成するダラット統合武備学校(Trường Võ bị Liên quân Đà Lạt)へと拡大していた。また、将校・下士官を養成する地方軍事アカデミーをハノイ、フエ、サイゴンの3ヶ所に設置した。
 しかし、それでも必要とされる十分な人員を確保できなかった事から、フランス軍は1950年5月11日から1951年10月1日にかけて、ベトナム国軍の士官候補生を教育する二つの予備士官学校 (Écoles d'officiers de Réserve) を設立した。一つはサイゴン西部トゥドゥック地区タン・ニョン・フーの丘に建設されたトゥドゥック予備士官学校(Trường Sĩ quan trừ bị (SQTB) Thủ Đức)で、1954年までに累計5368名のベトナム人将校を育成した。もう一つはベトナム北部ナムディン省に建設されたナムディン予備士官学校(Trường sỹ quan Trừ bị Nam Định)であったが、第1期(1951年10月1日~1952年6月1日)の255名を教育した時点でナムディン校は解散され、以後予備士官(SQTB)の教育はトゥドゥック校に一元化された。こうして1951年から54年の間、この2校で教育を受けた将校は合計5623名に上り、卒業後は中尉に任官してベトナム国軍(=フランス軍)の各部隊に配属されていった。

  
▲初期のトゥドゥック予備士官学校(仏語:Les Écoles des Cadres de Réserve de Thu-Duc)

▲トゥドゥック予備士官候補生4期(1954年)

 1954年、ディエン・ビエン・フーの戦いに敗れたフランスはついにインドシナ連邦の維持を諦め、ジュネーヴ協定でベトナム民主共和国(北ベトナム)の独立を認めた。こうして第1次インドシナ戦争は終結したが、同時に南部はフランスのコントロール下にあるベトナム国(南ベトナム)が引き続き統治するとし、ここにベトナムの南北分断は決定的となる。その後、終戦に伴いフランス軍部隊の多くは引き揚げたが、ダラットおよびトゥドゥックでの士官教育はそのまま継続された。ダラットは将来のベトナム国軍幹部を育成するエリート校で、卒業後に陸海空軍いずれかの士官に任官する。トゥドゥックは予備士官学校として、予備士官の育成を行った。
 1955年、もともとフランスによる支配に否定的だったベトナム国首相ゴ・ディン・ジェムは、フランスの意に従うだけのお飾りの元首でしかなかったバオ・ダイ帝を追放すべく、ベトナム国の政治体制を問う国民投票を行った。その結果バイ・ダイは失脚し、ジェムはベトナム共和国(Việt Nam Cộng Hòa)の樹立を宣言して南ベトナムをフランスによる政治的支配から独立させた。同年、トゥドゥック予備士官学校はベトナム共和国軍(QLVNCH)の士官学校として規模を拡大し、兵科ごとに専門の士官を教育する歩兵・機甲・砲兵・工兵・通信学校の5校が併設された。また、フランスに代わってアメリカ軍の軍事援助が本格化し、MAAG(軍事支援顧問団)がトゥドゥックでの教育の支援に当たった。
 1961年10月、ベトナム戦争の拡大に伴って専門技能を持った兵士の需要が高まったことから、歩兵・機甲学校以外の3校はトゥドゥックから分離され、士官教育ではなく技術教育を行う専門教育隊に改編された。専門分野が分離した事で、トゥドゥックは高級将校の育成に必要な一般軍事学問の習得に特化できたため、校名も予備士官学校からトゥドゥック武科学校群(Liên Trường Võ khoa Thủ Ðức)へと改称された。(武科学校群への改称は1954年とする文書もある)
 2年ほど経った1963年8月1日、校名は再び"トゥドゥック予備士官学校"へと戻された。しかしフランス軍の予備士官学校として名付けられたこの校名は、フランスから独立後、そぐわないとして批判もあった。

  
▲トゥドゥック予備士官学校/歩兵学校の初代大礼服(12期-23期/1961-1966年)


トゥドゥック歩兵学校

 
▲トゥドゥックの校章・制帽章・ベレー章(恐らく武科学校となった1961年以降のデザイン)

 1964年1月、機甲学校もトゥドゥックから分離され、トゥドゥックにおける兵科教育は歩兵のみとなった。これに伴い、校名はトゥドゥック歩兵学校(Trường Bộ Binh Thủ Đức)へと改称された。なお、歩兵学校となった後も、士官課程は引き続き予備士官(SQTB)と呼称された。トゥドゥック校自体では歩兵科のみだったが、実際には砲兵学校、機甲学校、通信学校、工兵学校、行政学校、輸送学校、武器学校、軍事情報学校、コマンド学校、需品学校、福祉学校、政治戦大学などベトナム共和国軍のほとんどの教育機関が合同でトゥドゥックでの士官教育に関わっていた。

 トゥドゥックへ入学するには第1バカロレア試験(後期中等教育の終了を証明する国家試験)に合格するか、もしくは学校卒業後、4年以上軍で勤務した准尉である事が条件とされる。南ベトナムではフランスの学校教育制度を継承しており、小学校は5年制、中学校は7年制(中高一貫)。中学第2学年(中学6年生)で第1バカロレア試験を受験し、第1学年(7年生)で第2バカロレア試験(大学入試)を受験する。当時中学校は義務教育ではないので、それを卒業し、かつバカロレア試験に合格できるのは、富裕層の家庭の中でも一握りのエリートのみである。

 トゥドゥック歩兵学校の使命は士官候補生の教育、訓練、そして祖国への奉仕者たる共和国軍将校に相応しい人格育成にあり、教育期間は9ヶ月間のカリキュラムから構成されている。
 トゥドゥックに入学した学生はまず、サイゴン市北西部ホクモン地区に位置する"クアンチュン訓練センター(Trung tâm Huấn luyện Quang Trung)"で3週間の基礎教育を受ける。クアンチュンはベトナム共和国軍の新兵教育および基礎軍事教練を行う施設であり、第1次インドシナ戦争中の1953年に、ベトナム国軍の新兵教育のためフランス軍が設立した"クアンチェ訓練センター(Trung tâm Huấn luyện Quán Tre)"が基となっている。戦後、クアンチェはゴ・ディン・ジェム総統によって"クアンチュン訓練センター"へと改称された。

    
▲クアンチュン訓練センターで訓練を受ける士官候補生

▲クアンチュン訓練センターから士官候補生に送られた射撃技能表彰
M16ライフルで"特級射手(Thien-xạ Ưu hang)"と認定されている

 クアンチュン訓練センターで3週間を過ごした後、学生はトゥドゥック歩兵学校に戻り、10週間の第一期教育(Nhập ngũ giai đoạn 1)が開始される。この時点でようやく学生は士官候補生の徽章(アルファ)を佩用する資格を得る。

   
▲トゥドゥック歩兵学校の2代目大礼服(第24期/1966年以降)

     
▲夏季準礼服

      
▲野戦服と野戦訓練
襟または胸に小型の士官候補生の階級章(刺繍)を付ける

 
   
▲教官と助教
教育隊では将校の教官が小隊長、下士官の助教が分隊長を務め、学生を指導した

  
▲校門とキャンパス
キャンパスの中心には、共和国軍の精神を示す"祖国感謝(Tố quốc ghi ơn)"の文字が刻まれたモニュメントが置かれている。

 
▲学生の柔道クラブ員
当時ベトナム共和国軍の徒手格闘訓練は韓国軍が指導するテコンドーが主流だったので、柔道は珍しいと思う。


 第一期教育の後、「地獄の4週間」と呼ばれる猛訓練期間を修了すると、学生が佩用する士官候補生徽章には棒が一本追加され、第二期教育が開始される。

   
▲棒が追加された第二期教育期の士官候補生の肩章

 計9か月のカリキュラムを終えた後、学生はトゥドゥック歩兵学校を卒業し、同時に准尉に任官して正式な将校となる。その後卒業生は各進路に進み、現役で部隊配属となった者は12か月間准尉として勤務した後、少尉に昇進する。
  トゥドゥック(後述するロンタン歩兵学校含む)では、1951年の1期から1975年3期生まで、累計8万名の兵士が士官教育を受けた。(その内特殊部隊将校は約4000名)。時期にもよるが、トゥドゥックに入学した学生は卒業後、65%が予備役将校となり、20%が現役の将校に任官した。また5%が国家警察や情報局、特殊部隊(=NKT)、あるいは民間企業に就職した。
 歴代のトゥドゥック卒業生はベトナム共和国軍の幹部として活躍し、軍団司令官3名、空軍司令官2名、海兵隊司令官2名、国家警察総監2名、その他機甲、砲兵、空挺師団、レンジャー、特殊部隊、サイゴン警察、中央情報部司令官など多数の優秀な軍人を輩出した。また軍人のみならず、2名のベトナム共和国首相、そして副総統がトゥドゥックの卒業生から生まれている。

 
▲卒業と当時に准尉の階級章と陸軍将校の帽章を授与される卒業生

▲卒業証書

▲卒業アルバムの挿絵
実際にトゥドゥックを卒業した元ベトナム共和国軍将校の方が、当時の卒業アルバム(1973年3期・4期)を公開されています!
学生たちが描いたと思われるコミカルな挿絵が沢山あり、つい彼らの青春時代に思いを馳せます。

▲現在も残るトゥドゥックの校舎
トゥドゥックの施設は戦後接収され、現在は住宅として利用されている

その他、こちらに現在のトゥドゥック歩兵学校跡の様子が紹介されています!



ドンデー下士官学校

 1954年、ジュネーヴ協定に基づくフランス軍の撤退に伴い、ベトナム北部ホンガイにあったコマンド学校(Ecole de Commando)も南ベトナムに移転した。コマンド学校はカインホア省シュイジューに移動した後、1955年2月にニャチャン郊外のドンデーに再び設置され、通称"ドンデー軍校(Quân trường Đồng Đế)"と呼ばれた。その後、学校の管理者は正式にフランス軍からベトナム共和国軍に切り替わり、校名も"レンジャー学校(Trường Biệt động đội)"に改称された。ドンデー周辺は海、川、山、ジャングルなど訓練に適した地形が揃っており、さらに空軍・海軍の基地が近く物資輸送の便が良いなど、非常に良い環境が整っていた。
 1957年、校名はドンデー下士官学校(Trường Hạ sĩ quan Quân lực Việt Nam Cộng hòa tại Đồng Đế)へと改称された。ドンデー下士官学校の業務は、その名の通り兵士への下士官教育が中心であった。
 しかし戦争が激しくなると将校の人的損失も大きくなり、ダラット・トゥドゥックだけでは必要とされる人数を教育しきれなくなっていた。そこで1968年末、ドンデー下士官学校にはトゥドゥック歩兵学校に次いで予備士官課程(SQTB)が新設された。既存の士官学校はほとんどの場合、第1バカロレア試験に合格した一般人が入学していたが、ドンデーの士官課程は即戦力となる現役下士官が士官候補生として入学した。入学に当たっては総参謀部による採用試験が行われ、優秀な下士官が選抜された。
 こうして終戦までに、ドンデー下士官学校予備士官課程では約1800名の予備士官を輩出した。(その内約100名は国立行政学院からの入学者)

    
   
▲ドンデー下士官学校の予備士官候補生(SVSQTB)
校章・帽章以外はトゥドゥックの制服と同一で、トゥドゥックと並ぶ二つ目の予備士官学校となった


サイゴン防衛戦

 1973年、首都防衛のためサイゴンの東に位置するビエンホア省ロンタン演習場の要塞化が始まると、歩兵学校もロンタンに移転される事となった。翌1974年初頭に移転は完了し、同校はロンタンの戦力の一部とされた。
 共産軍がサイゴンに迫りつつあった1975年4月22日、歩兵学校75年3期の学生達はダラット国家武備学校(1959年に統合武備学校から改称)、政治戦大学の2校と共にサイゴン・トゥドゥック地区にある旧歩兵学校への避難を命じられた。しかし学生の半数は撤退を拒否してロンタンに残り、首都防衛のため最後まで戦う決意であった。
 4月26日、共産軍はロンタン演習場に大規模な攻撃を開始したが、ロンタンは歩兵学校により強固に要塞化されており、突破を許さなかった。
 4月27日の夜、共産軍は再び激しい攻撃を開始した。歩兵学校の生徒達は必死の抵抗を試みるが、敵の数は圧倒的であり、非常に危険な状況に陥っていた。翌28日の夜明け前、防衛戦の指揮を執っていた歩兵学校参謀長レ・バン・フー大佐は、ついに生徒達にロンタンからの退却を命じた。しかし、それでも徹底抗戦を主張する生徒達はロンタンに残り、共産軍との戦いを続けた。
 サイゴン政府最期の日の4月30日午前8時、4両のT-54戦車がビエンホア街道からロンタン演習場内に侵入し、砲撃と火炎放射によって校舎の3ヶ所で火災が発生した。歩兵学校正門からは火炎放射戦車(OT-54?)が侵入し、学生隊の中央に突進してきた。学生隊はM72ロケットランチャーを発射し、戦車の動きを止める事に成功したが、それでも戦車は火炎放射を続けた。これを倒すため士官候補生第1大隊の二名の学生(空軍士官候補生)が肉薄攻撃を志願した。二人は死角から近付くと、いまだ火炎放射を続ける戦車の砲塔によじ登り、ハッチの中に白燐手榴弾を投げ入れて戦車の撃破に成功した。
 間もなくズオン・バン・ミン総統は、ラジオ放送を通じて午前10時24分に全軍に戦闘停止を下命。そして正午ごろ、サイゴンの独立宮殿(総統府)が占領され、ベトナム共和国政府と共和国軍は正式に無条件降伏を受け入れた。降伏と同時にベトナム共和国軍および歩兵学校も解散された。



アソシエーションリンク集

戦後、海外(主にアメリカ)に亡命されたSQTB卒業者・士官候補生の皆さんの戦友会です。
普通の部隊と違って、クラスごとに同窓会やってるのがいかにも学校っぽくて良いですねぇ。
あと制服の再現率がハンパないです!僕も見習いたいなぁ。

  


2013年09月27日

政治戦総局/TCCTCT

※2024年4月13日更新

あれは僕が二十歳くらいの頃。
ある日、ブラックホールだかビクトリーショーに一人で行ったら、あるディーラーで南ベトナム陸軍の肩章が売っていました。
肩章は二種類あり、一つは一般的な略式(スリーブ型)肩章に金属製階級章(少尉)。
もう一つは、それとほぼ同じ肩章の上に、謎の金属製徽章が付いた物でした。
どっちを買おうか迷いましたが、両方同じ値段だったので徽章付きの方がお得だろうと思って、後者を選びました。
しかし、その後もこの徽章の正体が分からない状態がずっと続いてました。


それから数年後、インターネットで在米南ベトナム軍人アソシエーションのサイトを見ていたら、見覚えのあるマークが出てきました。
どうやらあの徽章は、政治戦総局という組織の物のようです。
具体的にどういう事をしてた機関なのか以下にまとめてみました。

政治戦総局[ Tổng Cục Chiến tranh Chính trị (TCCTCT) / POLWAR General Department ]とは、プロパガンダや宣伝工作など国内外への心理作戦を行うため1964年11月に創設された総参謀部(BTTM)直属の機関。
ベトナム戦争は、その当初から国内の反政府勢力の反乱という非正規戦争の要素が大きく、通常の軍事作戦だけでは対処出来ない事は明白だった。そのためには、まず南ベトナム政府が人心を掌握し、民衆がベトコンなどの反政府勢力に流れないようする必要があった。
また、末端の共産軍兵士の中には共産主義に懐疑的で、純粋に民族自決や宗教解放が目的であったり、貧困や徴兵によってしかたなく
戦っている者も多く居たため、これらの人々に対しては南ベトナム政府の正当性をアピールすることで戦意を削いだり、投降・寝返りを促す心理作戦が有効であった。
政治戦総局はその実行機関として様々な宣伝工作を遂行し、ベトナム戦争において重要な役割を担った。

政治戦総局は以下の五つの部局から構成されています。

軍事保安局(Cục An Ninh Quân Đội)
敵スパイに対する防諜・情報保全などを担う保安機関。
1952年にベトナム国軍総参謀部が発足した際、その部局として軍事保安課(Nha ANQD)が設置された。
1965年の軍の組織改編に伴い政治戦総局の部局となり、軍事保安局(Cục ANQD)へと改称される。
形式上は政治戦総局の下にあるが、諜報戦に関しては独立した権限を有しており、国内の共産軍シンパの摘発を独自に行っている。


心理戦局(Cục Tâm Lý Chiến)
軍民から集められた数百人の歌手・俳優による中央芸能集団(Biệt đoàn Văn nghệ Trung ương)を擁し、ラジオ・テレビ・映画・出版物
等のメディアを通じて国内の国威宣揚、および敵へのプロパガンダと撹乱工作を行う。
心理戦局はゴ・ディン・ジェム政権時代に発足し、1962~64年の間は心理戦の専門家を育成するための15の基礎心理戦訓練コースを
運営した。1965年には改編に伴い政治戦総局の所管となり、それまで予算が足りず心理戦を実行する事が出来なかった各部隊に代わって、
心理戦局が一括して心理作戦を引き受けた。これは特に、部隊規模が小さいながら地元民間人との協力関係が重要な地方軍(DPQ,NQ)
にとって非常に効率的なシステムとなった。
また、心理戦局はベトナム・ボーイスカウトも所管していたが、1970年以降は組織を改編し社会福祉局に移管した。
共産軍への心理作戦は米軍特殊部隊心理戦(PSYOP)部門と共同で行われ、チューホイ計画本部(Bộ Chiêu Hồi)は、敵支配地域に投降
を促すビラを散布したり、スピーカー放送による呼びかけを行い、多数の北ベトナム兵やベトコンから投降・転向者を引き抜くことに成功した。
さらに"母なるベトナム"、"聖剣愛国戦線(OP-39作戦)"、"南部の声"、"クメールの声"、"インドシナ民族戦線"といった秘密ラジオ放送を
敵側に送信し続けた。この中には単に敵の戦意を削ぐだけでなく、もともとベトナム人を嫌っているカンボジアの共産ゲリラ"クメール・ルー
ジュ"に対し、カンボジア領を往来する北ベトナム・ベトコンとの対立を煽り、共産主義勢力内での内紛を意図する放送もあった。

▲心理戦局の全面協力によって製作された映画"晴れた日の午後/Nắng Chiều"(1973)
主演のフン・クオン(本名チャン・キム・クオン)は南ベトナムを代表するスター歌手。登場する軍人は皆、心理戦局の徽章を身に付けている。


教育局(Cục Chính Huấn)
軍の教育プログラムの作成や文化・生活面での活動によって兵士(警察官含む)への愛国精神教育を行う。
戦意高揚のため"旗ははためく"、"忠国の誓い"、"立ち上がる幾千戦士"、"北からの侵略者"など多数の国威宣揚音楽の作曲も行った。
直接の教育機関として、政治戦の専門家を育成する政治戦大学(Trường Đại học CTCT)および政治戦訓練センターを運営した。
政治戦大学は心理戦局の訓練コースを基に1966年に設立された政治戦士官(SQ/CTCT)教育課程で、カリキュラムは社会科学および
政治に焦点が当てられた。それ以外の軍事分野については、ダラット国家武備学校(VBQG)に出向して中隊指揮官レベルの戦術教育
を施された。教育期間は2年間で、終戦までに6期の卒業生を輩出した。卒業後は各部隊の先任政治戦士官として任に就くはずであったが、
実際には戦争の激化で戦闘部隊指揮官が不足したため、歩兵部隊の中隊参謀または小隊長になる者が多かった。


厚生局(Cục Xã Hội)
出征した将兵に代わってその家族の住居、学校教育、医療などの生活支援・福利厚生を行う。
多数の婦人将兵(Nữ Quân nhân)が所属しており、福祉分野を専門に教育する婦人学校(Trường NQN)を運営する。
職員は傷病兵のいる病院や家庭に訪問して看護・介護・慰問を行ったり、補助教員として一般学校で教鞭を執った。
また文部省と共同で、公立小中学校における青少年向けの軍事教練や、軍人子息に対する私立学校の授業料無料化を行った。
1970年には、それまで心理戦局が所管していたベトナム・ボーイスカウトが新たに『少年軍事連盟(Liên đoàn Thiếu nhi Quân đội)』
として再編され、社会福祉局の所管となった。
また従軍司祭としてカトリック(Công giáo)、プロテスタント(Tin lành)、仏教(Phật giáo)それぞれの司祭課(Nha Tuyên Úy)を所管
した。


需品購買局(Cục Quân Tiếp Vụ)
将兵およびその家族に、軍の生活物資を免税で提供するサービスを行う。
世帯あたりの家族数に応じて購入量は定められているが、特に嗜好品であるタバコビール、牛乳、砂糖、その他生活用品が市場価格の
30%~60%で購入でき、兵士・国民の士気を高めた。


この他、心理戦大隊や軍事保安大隊の徽章はこちらに掲載。(うわこのサイト、マニアック~w)

では、僕の買った徽章はどこの部署だったかというと・・・よく分かりません。
心理戦局(炎マーク)に似ているのですが、うちのは炎だけでなく星マークが入っているのです。
同じデザインのパッチは存在はしているんですが、なんと言う部署なのかはっきりせず。

▼心理戦局(左)と、謎の部署(右)

炎+星というデザインは他にも使われてまして、政治戦心理戦訓練センター※(左・中)と、心理戦訓練センター(右)のパッチに見られます。
※2014年5月13日訂正


では訓練センター(教育局)系で決まりかと言うとそうでもなく、
心理戦局に属すると思われる心理戦大隊(左)や対モンタニヤード心理戦部隊(右)にも、同じシンボルが・・・


こうなると、もう分かりませんw

とりあえず、心理戦局か教育局のどちらかっぽいです。
ま、政治戦士官は徽章以外は普通の陸軍将校と同じ格好だし、パッチも自作できるので、コスプレする分には困らなそうです。


ギター片手に市民と交流する政治戦士官とか、まぢクール!!
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