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2015年06月02日

近況




タイ北部の山の上にあるモン族(苗族)の村でボウガン射ったりしてました。  


2015年03月30日

インドシナ半島の諸民族と歴代勢力


僕がベトナム戦争コスプレを集め始めた当初は米軍LRRPのつもりで装備を集めてましたが、周りから「どう見てもヤードor南ベ」と言われまくったせいで、だんだん興味がベトナム人や少数民族の方に移っていきました。
また今思えば、歴史趣味の観点から見ても、20世紀後半最大の戦争であるベトナム戦争は(当然の事ながら)インドシナ半島の人々を中心に発生しており、彼らを知ることはあの戦争を学ぶ上で避けては通れない道でした。
(つまり僕の中では、第2次大戦を学ぶ上でナチス・ドイツを調べるってくらいオーソドックスな事をしているつもり。)

そんな中、最近ベトナムの少数民族に興味があるという声を(極少数w)頂くので、自分用に作った表を公開してみます。
この表は少数民族に限らず、マジョリティーも含めたインドシナ半島に住む民族と歴代の勢力のまとめです。(ただしミャンマーやマレーシアを含めると書ききれないので、インドシナ戦争に関った人々限定)
こうしてまとめてみると、あの地域の歴史の奥深さを感じるのと同時に、何年経っても争い絶えない怨恨の根深さも垣間見れました・・・
付け焼刃な知識なもので、もしかしたら間違ってる部分もあるかも。

(↑クリックで拡大)
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2015年03月06日

最近買ったもの

いつまでもペニス云々がブログのトップにあると僕の上品なイメージに傷が付くので、久しぶりにミリタリーウェアについて。

M65フィールドジャケット
今までM65持ってなかったので買いました。1500円也
かなりボロボロの状態の物を古着屋が補修したもので、継ぎ接ぎだらけのフランケン。直したって大した値段じゃ売れないのに、よくここまで補修したなと思う。
コレクション用にもファッション用にも使えないゴミみたいな服だけど、僕ははなっからベトナム軍風の魔改造するつもりで探してたので、これで十分。
(※基本的にはベトナム軍も米軍から供与されたM65をそのまま使っています。また米軍はベトナム=熱帯というイメージに捕らわれ防寒服の支給が十分ではなかった為、フィールドジャケットに関しては米軍よりもベトナム軍での使用をよく見ます)
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2015年02月13日

日本政府のベトナム支援

注目すべき点が大量にある動画。
1968年、プレイク省を視察するグエン・バン・テュー総統御一行
(グエン・バン・テュー総統、グエン・カオ・キ副総統、第2軍団司令ビン・ロック中将(背が高い人)、そして在ベトナム日本大使)


 映像の前半はプレイク省プレイメ中学校(Trường Trung học Plei Me, 日本で言う高校)への視察。学生服(白いアオザイ)を着た女学生たちが総統一行を拍手で出迎えています。一見よく見る光景のように見えますが、プレイメという土地柄、実は彼女達はベトナム人(キン族)ではないと僕は考えています。中部高原に位置するプレイク省は当時、まだキン族の入植が進んでおらず、人口の大半が少数民族のデガ(特にジャライ族)でした。彼女達がジャライ族であるという確証はありませんが、この後にCIDG部隊の映像が出てくる事からも、この視察は政府によるデガへの学校建設や軍への重用などデガとベトナム共和国政府の融和・団結をアピールする目的で行われた気がします。(ベトナムにおける一般的な学生服だからと言え、キン族の民族衣装であるアオザイをデガの女性に着させるのはどうかと思うけど)
 後半はプレイク空港で行われた、第2軍団CIDG(越: DSCD - Dân Sự Chiến Đấu)部隊の閲兵式。ベオギュン(ベオガム)迷彩服の上に民族衣装着てるのは、おそらくMGF(Mobile Guerrila Force)。で、ザーコップ(タイガー)着てるのが第2戦術地区マイクフォース/MSF (II CTZ MIKE Force)。そして兵士達の背後にベトナム国旗と共にはためくのは、なんと日の丸です。飛行場に並べられた大量の木箱は全て日本政府から送られた医療支援物資であり、この一連の視察は在ベトナム日本大使も出席するベトナムと日本の親善行事でもあったようです。多分前半のプレイメ中学も、日本政府の支援で建設された物なのではないでしょうか。 式典ではまずベトナム軍幹部が大使に感謝を表明し、日本大使も何やらスピーチしていますが、音声は残っていないので内容は分かりません。また、1968年当時の在ベトナム日本大使は青木盛夫(1967-1968)および北原秀雄(1968-1970)の二名が居るんですが、この動画の人物がどちらなのかは分かりませんでした。

式典に集まったプレイク市民(多くがジャライ族)。横断幕に日本語で『永生友誼の日本‐越南』と書かれている。

 1951年の国交樹立から1975年の国家消滅まで、日本政府はベトナム共和国に対し多大な援助を行っていました。それは第2次大戦における日本軍統治下での被害に対する賠償に始まり、以後ODA(政府開発援助)による物資・インフラ支援が長く続きました。また同国で15年間続いたベトナム戦争に対しては、日本は憲法上ベトナムへの派兵が不可能であり、武器輸出も出来ませんでしたが、むしろそれに直接抵触しない兵站・インフラ・民生分野ではアジア最大のベトナム共和国支援国でした。日本は米軍によるベトナム軍事支援物資の最大の生産国でもあり、CIDG部隊が着ている迷彩服や、ベトナム軍で広く用いられたキャンバスブーツなどの被服類は、かなりの割合で日本が生産していました。そして何より、在日米軍基地は極東地域に展開する米軍の最重要拠点であり、その世界最大の軍隊を支える大量の兵站を担う事が日米同盟における日本の役目でした。そして平時の在日米軍に加え、朝鮮戦争・ベトナム戦争という二つの戦争による膨大な物資・サービスの需要が日本の高度経済成長を大きく後押ししたのは間違いないでしょうね。

 今日本の首相さんは、この自民党の伝統的な路線を更に拡大して、米軍以外の外国軍に対しても公に支援できるよう閣議決定しちゃいましたね。『非軍事分野に限る』という耳障りの良い言葉で国民を丸め込んだ気になってるんでしょうが、現在よりも限られた枠内で行われたベトナムへの支援ですら上記の有様だったわけです。つまりんな形の支援であれ、アメリカと共に戦争状態や政情不安定な国への支援を行う事は、結局軍事支援になってしまうんだという認識は持っておくべきでしょうね。なお、僕はこの方針に全面的に反対している訳ではありませんが、反対意見を聞かないどころか、反対意見の出ないよう聞こえの良い言葉で国民を欺き、国会ではなく密室の閣議でこのような国家の重大事を内々に決めてしまう安倍晋三内閣を心から軽蔑しています。
  


2014年11月23日

ベトナム軍の食事とPIRレーション


リエクトメントの楽しさは、単なるコスプレ戦争ゴッコに留まらず、当時の兵士の生活を再現し、一時のタイムスリップを体験できる事にあると思います。そして、その気分を盛り上げるにあたり、結構重要なのが食事。既に日本でも、趣味人口の多いアメリカ軍・日本軍・ドイツ軍などでは、いくつかのイベントで当時のフィールドキッチン、戦闘糧食の再現が行われていますね。あの完成度には感服です。
もちろん僕らベトナム共和国軍愛好家も、ある程度食事をベトナムっぽくしようという試みは行ってきました。しかし、その根拠となる資料・証言は、英語で書かれた洋書にはなかなか載っておらず、ほとんど想像でメニューを考えるしかありませんでした。
そこで今回、せっかくネットを通じて元ベトナム共和国軍将兵の方々とお知り合いになったので、(聞きたい事は山ほどあるけどあまり質問責めしたくないので、程々に雑談しながら)当人たちに直接「当時何を食べていましたか?」と尋ねてみました。
以下、その回答です。(画像はイメージです)

・典型的なメニューは、調理済みのお米(乾燥米?)に、魚や肉の干物、あるいは単にお米にニョクマムをかけるだけだったよ。

・作戦時の戦闘糧食は、ハムの缶詰、ビニールパックされたポークとレバーペースト、乾燥米だった。

・米軍のCレーション(MCI)食べてた。


・基地の食堂では、ほとんどが魚や豚肉の煮物と野菜、それにスープとご飯というメニューだった。

いやいや大変貴重な証言を頂けました。
もちろん年代や部隊・職種によって食事内容は様々だったでしょうが、初めて具体的なメニューを知ることが出来て感激です!
と言うか、"ハムの缶詰、ビニールパックされたポークとレバーペースト、乾燥米"ってそれ、最初からパッケージとして生産されたレーションっぽいですよね。
ベトナム軍にレーションが存在していた・・・。考えてみれば当たり前の事ですが、今までそういう話を聞いたことが無かったので、俄然テンション上がりました。
こりゃあ再現するしかないですね・・・

ところで、上記のベトナム軍レーションのメニューを聞いて、何か気になりません?
それによく似たレーションに心当たりがあるのですが・・・

(写真は現代製リプロ)

そう、"PIR (Packet, Indigenous Ration)"です。 (日本では"PIRレーション"または"SOGレーション"という名前で通ってるので、以下PIRレーションと書きます。)
PIRレーションとは、米軍グリーンベレー/MACV-SOGがベトナムで行っていたCIDG計画等の特殊作戦を兵站面で支援するため、沖縄に設置されたSOGの装備調達・開発部門CISO(対反乱支援センター)が開発した、CIDG(現地の少数民族反共ゲリラ部隊)向けレーションです。
※CISOについてはKingbee氏のブログに分かりやすい解説がありますので、そちらをご覧下さい。

当初、米軍はCIDG隊員に対し自分達と同じMCIレーション(Meal, Combat, Individual)を配給していましたが、間もなくこのレーションはCIDG隊員に不向きであることが明らかになりました。
これは欧米人とアジア人の食文化の違いもありましたが、それ以上に体質によるところが大きかったようです。
つまり、米や野菜を中心とした質素な食生活をしてきたCIDG隊員たちにとって、大柄な欧米人の体力を維持するため開発されたMCIレーションはあまりに高タンパク・高脂質過ぎて、彼らの胃腸では消化することができず下痢になってしまったのだそうです。
例えるなら、病院食からいきなりラーメン二郎に変わった感じ。

そこで急遽、CISOはCIDG向けレーション開発計画"プロジェクトPIR"をスタートし、その結果生まれたのが、このPIRレーションでした。
PIRレーションには乾燥米(アルファ化米)と乾燥野菜を中心に、アジア人の味覚に合わせた以下の5つのレトルトパックメニュー(Packet, Subs, Indig)が用意されていました。
#1 牛肉 (FSN 8970-J55-0010)
#2 魚/イカ (FSN 8970-J55-0020)
#3 エビ/キノコ (FSN 8970-J55-0030)
#4 マトン (FSN 8970-J55-0040)
#5 ソーセージ (FSN 8970-J55-0050)

これらPIRレーションはCIAが所管するCIDG計画(※実行機関は陸軍SFだがイニチアチブはCIA)のための備品であるため、発注はCIAの予算で行われ、日本・沖縄の加工食品メーカーが独自の加工技術を生かしてこれらを生産していたそうです。
また、PIRレーションは軽量で耐久性が高く使いやすい事からCIDG兵士以外にもなかなか好評で、CIDGと行動を共にする米軍特殊部隊やオーストラリア軍SAS隊員も、好んでこのPIRレーションを作戦行動に携行したといいます。

A-221マイクフォースに配食されるPIRレーション (1969年2月23日プレイク)


動画内の段ボールに、思いっきり沖縄の会社名と住所が書かれてますね。

もしかしたらまだその会社あるかもと思って軽く調べてみましたが、該当するものは見つかりませんでした。
ストリートビューでこの住所も確認しましたが、会社ではないっぽいので押しかけるのはやめましょう。


このようにPIRレーションはCIDG計画、およびCIDG兵士によって行われた米軍MACV-SOG・ベトナム軍NKT合同の長距離偵察作戦に多大な貢献をしたわけですが、こんな良い物がCIDGでしか使われなかったというのは、むしろ不自然ではないでしょうか。
同じくアジア人であり、かつCIDGよりもはるかに規模の大きい(というかベトナム派遣アメリカ軍の数倍の兵力の)ベトナム共和国軍こそ、こうしたレーションの需要が大きかったはずです。
冒頭の証言にあったベトナム軍レーションとPIRレーションでは若干メニューが違うようですが、当時こうした保存性の高い加工食品はどこの国のメーカーでも作れるという訳ではないですから、おのずと製造メーカーは限られるはずです。
また当時、日本ではCISOからの発注品以外にもベトナム軍向け援助物資が大量に製造されており、さらに民間レベルでも多数の日本企業がベトナムに進出していました。
これらの事から、ベトナム軍がCISOを介さずに直接日本の食品メーカーにPIRレーションの亜種のようなものを発注していた可能性というのは、十分に有り得ると考えています。
ただし、まだ想像の域を出ない話なので、これからもっと調べていきたいと思います。

いや~ワクワクするテーマが増えたv(≧∀≦)v
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2014年11月13日

MVCキャンプ&撮影会 その2


1日目の続き

2日目は米軍供与タイガー※着てMSF(マイクフォース)っぽく。

※いわゆる普通のタイガーストライプの事。米軍がCIDG(=現地民反共ゲリラ部隊)に供与するため、ベトナム海兵隊戦闘服の迷彩(ジャーキョプ/虎皮)をコピーして日本などの東アジア各国で生産させた軍事支援物資の一つ。
米軍特殊部隊やLRRP隊員も自費購入して勝手に着用(規則違反)したので、そちらの方で有名になってしまったが、本来は米兵が着る服ではない。また各々のメーカーが見よう見まねでそれっぽく作ったコピー品に過ぎないので、無数にバリエーションがある。

1日目は雨だったのでカメラを出すのが億劫で、iPhoneのカメラで撮ったあと加工したニセ古写真でしたが、
この日は晴れたので、ちゃんと1959年発売のレンジファインダー機、フジカ35SEで撮りました。(でもデジタルで加工はしている)


CIDG部隊の編成にはCSF(Camp Strike Force)、MSF(Mobile Strike Force)、MGF(Mobile Guerrila Force)といろいろ有るけど、
どれも服や装備なんてほとんど変わらないので、自作のトリコロール柄ネッカチーフで、MSFっぽさをアピール(笑)



以下、画像加工するのが面倒臭いのでそのまま。
  



前々から思ってたんですが、CIDGコスプレするにあたり、普通にタイガー着てブッシュハットもタイガーを被っちゃうと、どうも日本人が米軍特殊部隊コスプレしてるように見えてしまうんです。(CIDGの衣装再現的には正しいんだけど)
なので今回はあえて、ブッシュハットは被らずベトナム軍のOD色キャップにしました。CIDGは米軍グリーンベレーが組織したとは言え、編成上はベトナム軍LLDB(特殊部隊)内の部隊なので、服も帽子もブーツもベトナム軍の装備が普通に支給されています。
そこで今回僕が使ったキャップが、50~60年代の警察予備隊・陸上自衛隊のもの。


これは米軍(OG-107)ユーティリティキャップを日本でコピーしたものですが、オリジナルとは異なり、後ろ側にサイズを絞る紐がついています。いかにも日本っぽいですね。


なんで米軍ではなく、わざわざ自衛隊のを使うかと言うと、実はベトナム軍でも当時、まったく同じ形状のキャップが使用されていたからです。


ベトナム戦争当時、日本は東アジアにおける米軍軍事援助物資の最大の生産国であり、大量の日本製被服・装備が(一度米軍に納入された後)ベトナム軍に供与されていました。
そして、それら軍事物資を生産していた日本のメーカーというのは、技術的にも生産能力的にも、元々自衛隊に装備品を納入している業者である場合が多かったようです。
なので、この自衛隊キャップと、ベトナム軍に供与されていたキャップは、同じメーカーで生産された同一の物である可能性は十分にあるだとう、という考えからコレクションとして持っています。

なお、相方のホアン君が被ってるのは、ベトナム軍で広く用いられた米軍ホットウェザーキャップ(ベースボールキャップ)のコピー品。
90年代のカンボジア王国軍の物で代用しています。いいねぇ~!


また今回ブーツは、CLASSIFIEDさんで販売中のフランス軍タイプキャンバスブーツを、ベトナム軍で大量に使用された日本製MDAP生産(主に韓国および日本製)製キャンバスブーツ風に改造して使いました。

まず、ロゴの入ったゴム板を外す。(縫い付けなので、跡は目立たない)

 

新たに貼り付けるゴム板を作る。僕は今回、表面のザラザラ感を再現すべく、滑り止めのついたビニール手袋を素材にしてみました。

 

実物からゴム板の大きさを採寸。手袋を同じ大きさに切り出し、セメダインを塗布。

 

付ける位置も、実物と比べながら大体同じになるように接着。(手前が実物、奥が自作品)

 

とりあえず現状で、ここまで出来ました。パッと見良い感じ♪ (キャンプで刷いたので汚れてます)


残る改造ポイントとしては、、
・アイレットをアルミ色の物に交換
・ブーツの丈を穴二つ分短くカットする
・土踏まずの部分にアイレットを追加
ここまでやれば完璧ですね。そのうち進めたいと思います。


おまけ

ホアン君のGIコットを修理。そうです、あのプラスチック製ビーチクがボキっといってました。
新品の交換部品に取り替えるだけなんですが、やった事ある人なら分かるはず。あの折れた側を取り外す時の煩わしさを。絶対設計ミスですよあれ。




でも、この作業するの2回目なので、割と早く終わりました。
当時もこんな修理したのかなぁ。
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2014年10月18日

クメールとかベトナム雑記

こいつがクメール軍情報部、そしてフランスSDECEの二重スパイだったと噂される、FULRO最高幹部の一人レ・コセム大佐。
自分がチャム族であることを利用してFLC(チャンパ解放戦線)を結成、南ベトナム領内の少数民族に連携を持ちかけ、FULROを結成させた張本人。
しかし実際には、FLCおよびFULROの結成自体が南ベトナム政府へのサボタージュを目的とした破壊工作であり、側近のレ・コセム大佐がシハヌークに直接提案、承認を得た作戦だったという。
クメール側の真意に気付いたFULROおよびFLHP(中部高原解放戦線)最高指導者イーバム・エニュオルは、クメールの傀儡となったFULROから離反するも、クメール軍情報部に拉致され、以後6年間軟禁状態に。これによりFLHP系FULROは指導者を失い、間もなくサイゴン政府と和解(事実上の降伏)。
この間、70年にロン・ノル将軍がクメールの政権を握ると、レ・コセムはあっさりシハヌークからロン・ノル派へ鞍替え。
ベトナムのFLHP系FULROが活動を終えた一方、レ・コセムの配下にあったクメール領内のFLC(=チャム族)系FULROは、正式にクメール共和国軍に編入。

クメール軍第181FULRO大隊の幹部とロン・ノル将軍。
なお、レ・コセムは1975年の敗戦後、消息不明・・・。
クメール軍の軟禁下にあったイーバム・エニュオルは、プノンペンがクメール・ルージュによって占領されると、クメール軍幹部もろとも市内で処刑。FULROは稀代のカリスマ指導者を永遠に失ってしまった。 
一体どの段階までフランスの関与があったのかは分からないけど、少なくともFULROが結成された1964年の時点ではSDECEと通じてた気がしてならない。
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2014年09月27日

今週のつぶやき

※2019年11月24日更新
※2022年10月23日更新

ラムソン719作戦に投入される、第1歩兵師団第1偵察中隊の動画をABCニュースのアーカイブから発見!!
今まさにケサン基地からラオス領内へ出撃する場面です。
なぜかブラウザ上で再生出来なくなったので、ダウンロードして、偵察隊員の場面だけを編集した動画をYoutubeに載せときました。


ベトナム戦争においてアメリカ陸軍は、それまで各部隊の歩兵がその都度斥候として行っていた偵察活動を一元化し、直接的に師団本部など上級司令部の目となる機動性の高い偵察専門部隊LRRPを編成しました。そしてこのLRRPが非常に大きな成功を収めたことは有名だと思います。
一方、これを受けてベトナム共和国軍も各師団および連隊ごとに偵察中隊を設置していました。ベトナム版LRRPである彼らは米軍のMACVリーコンドースクールで研修を積んで偵察のノウハウを学び、その目論み通り戦場における情報収集に多大な貢献をしました。
しかし、彼ら偵察中隊は人数が少ないため必然的に写真も少なく、謎な部分も多かったんです。それがこんな鮮明な動画で見られるとは思ってみませんでした。マジで久しぶりに「ウホッ!」となる動画でした。
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2014年09月14日

つぶやきまとめ

来年春は終戦40周年なので、75年4月設定で『スンロクの戦い』ごっこやりたいなぁ。無理だよなぁ…
いや、撮影会だけでもやりたい。マジで。
スンロクじゃなくても、サイゴン橋(新港橋)の候補は幾つかある。


サイゴン橋の高欄(手すり)は見覚えある形だったので日本の業者が作ったのかなと思ってたけど、
実際の施工業者はアメリカの軍需系ゼネコン"Johnson, Drake & Piper, Inc."でした。
でも、見た目似たような高欄は全国に無数に存在してる。今関東中の橋をストリートビューで確認して、候補地を捜索中。
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2014年08月14日

恋するモン族~Boy meets girl~

以前の記事で紹介しましたが、現在僕は『メコンに死す』という本を読み進んでいるところです。
この本はラオス内戦当時からモン族難民の支援に当たってきたタイ人作家が、彼らの証言を基に再構成した物語です。
物語は内戦の最中の1960年から始まり、パテート・ラーオ(ラオス愛国戦線)指揮下の共産モン族軍に父親を殺されたモン族の少年が、兄と共にヴァン・パオ将軍率いる右派モン族軍※に入隊し、パテート・ラーオや北ベトナム軍、そして同族の共産モン族との戦いに身を投じていくというストーリーです。
(※ラオス王国軍内におけるラオス人部隊の規模・戦意は低く、右派モン族が事実上の政府軍主力部隊だった)
右派モン族を主軸としたお話ですが、敵である共産モン族側の内情も描かれており、内戦に勝った側の共産モン族すら迫害されるという歴史上の結末を考えると、彼らモン族の過酷な運命がより鮮明に感じられます。




第1次~第2次インドシナ戦争におけるモン族とフランス、アメリカ軍との関係は過去記事『モン族を想って』を参照

でも、僕は本を読むのが遅いので、まだ半分くらいまでしか読み進んでいません。1960年から始まって、今ようやく1964年です。
この年、19歳になった主人公のリー・トゥー兵長は休暇で家族の住む村※に戻った際、かねてより恋心を抱いていた少女マイ・トーに求婚します。
(※生まれ故郷は少年時代の1960年にパテート・ラーオ軍の砲撃で集落全体が焼き払われ、生き残った住民全員で移住した山中に村を新設し、そこに家族や幼馴染も住んでいる)
このモン族の若者の恋が、頭の中が戦争のことばかりの僕にはすごく新鮮に感じられました。

なので今回は、どんな時代であっても変わらない人間の普遍的な営み、モン族の恋愛事情について、この本から抜粋・まとめてみました。

モン族の婚姻制度は、親が結婚相手を決める許婚ではなく、伝統的に自由恋愛が基本だそうです。

まず、男子は自力で気に入った女子を見つけます。(※女子の結婚適齢は15~16歳ほど)
それは近所の幼馴染であったり、偶然出会った他所の町のモン族だったりと様々。
ただしモン族には、近親婚を避けるため『同じ姓の異性とは結婚できない』という掟があり、これだけは絶対に守らなくてはなりません。
(この掟のため、実際には血の繋がりが無くても好きな人と付き合う事ができないという悲恋が起こるそうです)
そして気に入った娘に出会ったら、まず自己紹介し、相手の名前と住所を聞き出します。

そこから男子は必死に女の子を口説きにかかりますが、ここからがモン族独特の恋愛スタイル。
いくら自由恋愛推奨とは言え、未婚の男女が公然とイチャイチャするのは憚られるため、男は深夜に彼女の家を訪れます。
そして、彼女の家の外で、屋内の彼女と壁越しに会話をしなければなりません。夜でも直接会ってはならないのです。
また、モン族の未婚女性は基本的に両親と同居しており、家も一間しかない小屋なので、親を起さないよう小声でヒソヒソ話する必要があります。
さらに、初めて娘の家に来た場合、その娘が家のどの位置に居るか分からない為、男子は一か八か、壁の四面をノックして回り、中からの反応を確かめるしかないのです。
当然そんなことしたら娘の両親は起きてしまいますが、この口説き方は自分達もやってきたことなので怒る事も無く、「わしの娘は反対側じゃぁ」と教えてくれます。
こうして、寝てるのか起きてるのか分からない両親の脇で、男女の壁越しの会話が続きます。

ただし、この時点ではまだカップルは成立しておらず、まだお試し期間中なので、モテる女子の家には毎夜代わる代わる様々な男達が口説きに訪れます。
女子は、その中で気に入った男子には愛想良く、不合格者は冷たくあしらう事で徐々にふるいにかけ、相手を絞っていきます。
自分が好かれているか、振られたかは男子側の自己判断という、男のメンタルにはなかなか厳しい風習です。

こうして好きな相手が一人に絞られると、ようやくカップル成立。
ここから、二人のお楽しみタイム『コージェー』が始まります。
『コージェー』とは家の壁に穴を開けることで、それまでは壁越しに会話するのみでしたが、女子が『コージェー』を許すと、男子は壁に腕が通るほどの穴を開けます。
そして、そこから腕を突っ込んで、壁越しに彼女の身体を触る事ができるのです。ワンダホ~!
しかし、あいかわらず娘の両親は同じ小屋で寝ています。
小声で話すどころか、親の目の前で揉み揉みタイムまで始まって、彼女の恥じらいはMAX!
男のほうも、壁越しのペッティングに興奮度MAX!!モン族エロい。

しか~し、中には「どっちも好きだから決められない」とか言って二股かける女子もいます。恋の主導権は女子が握っているのです。
そして好きな二人の男子に、それぞれ別々にコージェーさせる場合もあるとか。
二股に気付かない男子は、それぞれ「ようやくあの娘をゲットできた」と浮かれ気分ですが、もともと狭いモン族の社会ですから、いずれ二股はバレます。
当然二股かけられた男たちはブチ切れるわけですが、こういう場合モン族男子には、定番の仕返しがあります。
それは、いつものように彼女の家を訪れコージェーさせてもらう訳ですが、実はそこに全然関係ない別の男友達を連れてきて、その友達に彼女の身体を触らせちゃうのです。
壁越しに行われるコージェーならではのセクハラ・リベンジ。これが慣例として代々受け継がれる復讐の手段なんですから、いかに昔から二股が多かったかを物語っていますね。
(男が怒り狂って暴力に走らないよう、予めソフトな復讐法を決めてあるんだと思います)


こうして幾多の試練を乗り越えたカップルは、ついに結婚へと進みます。
互いに結婚の意志を確認しあうと、男子は自分の両親を通して、正式に娘の両親に結婚を申し込みます。
今まで散々娘が壁越しにイチャイチャしてるのを見てきたので、親は基本的にそのまま結婚を許可し、めでたく結婚式となるわけです。
なお、モン族の夫婦は結婚すると、それぞれ実家を出て二人で新たな家庭を築くので、結婚後両親と同居する事はありません。完全核家族制です。
とは言え、そんな遠くに引っ越す事もないので、爺ちゃん婆ちゃんから孫たちまで、だいたい固まって一つの村で生活します。
これが、代々続いてきたモン族の恋愛・結婚スタイルでした。


以下、1975年以前のモン族の日常風景を記録した映像です。
これらを見ていると、彼らが失ってしまった物の大きさを改めて痛感します。


本格的な内戦に突入する前の、モン族にとって最後の平和な時代。1956年





内戦終結直前の1974年。


この1年後、共産ラオス政府が成立した事で、ラオスに住んでいた20万人のモン族が難民として隣国のタイなどに脱出せざるを得なくなり、彼らは帰る故郷を永遠に失いました・・・




余談ですが、僕が以前スカイプで仲良くなった中国の女の子は、モン族と同族(住む場所によって名前が違うだけ)の貴州省出身のミャオ族の娘でした。
友達につけられたあだ名は、崖の上のポニョに似ているから『ポニョ』だそうですw
当時、その子は武漢の大学で日本語を勉強していて、日本人と仲良くなりたいからスカイプで友達を探していたそうです。
貴州の実家の写真とか、親戚の結婚式の写真とかいろいろ見せてもらいました。まさに、ラオスのモン族のそれといった感じでした。
でも現在中国に住むミャオ族は、少数民族とは言え別段差別されているという事はないので、普段の生活は普通の中国人(漢族)と全く一緒です。
もしラオスのモン族があれほど内戦に深く関っていなければ、ミャオのように今も平和に暮らせていたのかもしれません。同族でも住んでいる場所で大きく明暗が分かれてしまった事を、その子と会話する中で密かに感じていました。

しかしあの子かわいかったな~。二回くらい日本に留学に来たそうですが、日本国内でも遠い場所だったので、結局直接会うことはありませんでした。
ちょっともったいない事したかも。


  


2014年07月30日

またつぶやき

ちょろちょろ出していきます。

苔の生い茂ったししおどしのように。

おじいちゃんのオシッコのように。

たいが
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2014年07月09日

最近買った本

メコンに死す
ピリヤ・パナースワン (著), 桜田 育夫 (翻訳)

メコンに死す―インドシナ戦争の裏面を語るノンフィクション・ノベル (アジアの現代文学 7 タイ)

1975年、ラオスは長年に及ぶ内戦の末に、王政を廃止、共和制に移行した。このラオス革命の陰には、右派と左派に引き裂かれ、それぞれに利用されたあげく、大量の難民となって国外に脱出せざるをえなかったモン族(メオ族)の悲劇があった。本書は、このインドシナ戦争の影の部分を克明に描いたドキュメンタリー・ノベルで、ヴァン・パオ将軍やプーマ首相など実在の人物も登場する異色作である。著者は米国の援助機関や難民キャンプでモン族の人たちと長い付き合いがあったタイ人ライター。口絵にはモンの日常風景、主要政治家などの写真を配し、資料的にも貴重である。
(Amazon内容紹介より)
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2014年05月16日

クリパス速報

いっこうにアップロードするフィルムの質と量に衰えを知らないYoutubeチャンネルCriticalPast(以下クリパス)。
ホントありがたいことにほぼ毎日新しいフィルムを十数本アップロードしているので、ボヤボヤしてると良い映像を見逃してしまいそう。だから毎日のチェックが欠かせません。
別に、あとから検索すれば良いんですが、あまりにしょっちゅう見ているので、アップされてから最初の再生が僕ということが多くなってきて、なんかクセになってきました。
恐らく撮影した米軍関係者と、クリパスの担当者以外はまだ誰も見た事の無い映像なので、それを世界で最初に見れるのが楽しくてたまらないのです。


海軍司令官チャン・バン・チョン副提督(海軍准将) 1969年11月20日

1966年から1974年まで南ベトナム海軍司令官を務めたチャン・バン・チョン副提督(当時)の動画!今流行の「提督」です!


「なんで海軍司令なのに"副"提督で"准将"なの?」って感じですが、実は南ベトナム海軍では"提督"は役職や称号ではなく、階級の名称でした。
まず、1964年以前の南ベトナム海軍の将官は、中国の伝統的な称号を継承して"都督(Đô đốc)"という階級であり、陸軍・空軍の将官には以下のように対応していました。

准将:なし
少将:準都督(Chuẩn Đô đốc)
中将:副都督(Phó Đô đốc)
大将:都督(Đô đốc)

1964年、この中の準都督(海軍少将)が"提督(Đề đốc)"に改称され、さらに"副提督(Phó Đề đốc)"が准将(代将)として新設されます。

准将:副提督(Phó Đề đốc)
少将:提督(Đề đốc)
中将:副都督(Phó Đô đốc)
大将:都督(Đô đốc)

ただし、南ベトナム海軍の将官の階級は制度上は存在したものの、実際にはその階級を持つ将官は1967年まで存在しませんでした。
1955年のベトナム共和国海軍設立以来、海軍司令官は少佐から大佐が務めており、66年に就任したチャン・バン・チョンも当時大佐でした。
しかしチョンは翌年の1967年に史上初の副提督(准将)に昇進し、更に1971年には提督(少将)の位を得ました。
南ベトナム海軍で提督にまで上り詰めたのはこのチャン・バン・チョンと、チョンから海軍司令を引き継いだラム・ニュン・タンの二名のみです。
さらに提督の上位の副都督(中将)になったのは1975年に最後の海軍司令に就任したチョン・タン・カンのみで、在任期間も終戦までの1ヶ月間ほどでした。
そしてついに、海軍最高位の都督(大将)の階級を手にする者は一人も出ないまま、ベトナム共和国海軍はそのに歴史を閉じたのでした。


チョン提督は今もご健在(なはず)。
2011年にアメリカ・カリフォルニア州で開催された南ベトナム海軍士官候補生アソシエーションのイベントで講演された際の映像です。





地方軍カントー訓練基地(1967年5月6日)

先日も地方軍(DPQ)の訓練の様子を載せましたが、また新しい動画が出来ました。
徒手格闘訓練のキャプションには『空手』って書いてあるけど、韓国人インストラクターが教えているとも書いてあるので、正しくはテコンドーでしょう。











CIDGキャンプ・ストライク・フォース

軍服・ブーツの支給(1963年8月5日)




キャンプの設営(1963年8月7日)






ジャライ族中隊(1966年2月18日)




デガ村落への訪問医療支援(1966年2月19日)



こうした人道支援による地域住民との協力関係の維持は、国境地帯をベトコンから防衛するCIDG計画の肝であり、グリーンベレーおよびLLDBにとっては戦闘以上に重要な任務の一つでした。



11月1日パレード(1965年11月1日)

1963年11月1日に軍部がクーデターでゴ・ディン・ジェム政権を打倒した事を記念する軍事パレードの様子です。







軍旗の後、士官候補生よりも先に民族衣装を着たCIDG兵士が行進している事に注目!




男性だけでなく女性も居ますね。女性はCIDGと言うより、普通に人民自衛団(NDTV)という扱いだと思います。
FULROの反乱が起きた翌年という事で、少数民族の地位を認めることでなんとか反乱の火種を沈静化しようとする南ベトナム政府の気遣いと言うか苦心が見てとれます。



今日の衝撃映像:パレードカーにひかれるグエン・カオ・キ首相(1965年11月1日)



首相閣下wwww

多分この運転手はグエン・カン派の残党が差し向けた刺客(笑)
  


2014年04月18日

素晴らしきYoutube動画

※2024年4月13日更新


最近Youtubeに上がってるベトナム戦争期の記録映像がマジで素晴らしい!
今まで何千枚も当時の写真を見てきたのに、初めて見るような映像が次から次へと出てきます。
また写真では分からない、兵士の動きや雰囲気も動画ならビンビン伝わってきますねぇ。サイコーです。
今回はその中から、つい見入ってしまった興味深い動画をいくつかご紹介します。


PRU(1968年8月31日)

南ベトナム領内で村落探索をしているアメリカ陸軍第1歩兵師団第18歩兵連隊第2大隊を記録した映像ですが、なんと南ベトナム軍(正確には省政府が所管する準警察部隊)のPRU(Đơn Vị Thám Sát Tỉnh, 省探察隊)が同行し、通訳や捜索の指導をしていました。PRUの動画なんて初めて見ましたよ。
確かに米軍の一般歩兵部隊は対ゲリラ戦に関しては素人なので、グリーンベレーに一から特殊作戦を叩き込まれたPRUが、オブザーバー兼通訳として歩兵部隊を指導するのは理にかなっていますね。

なお、PRUやプロジェクト・フェニックスは『CIAが雇った殺戮部隊』などイメージ先行の誇張した内容で語られがちですが、実際の活動は1961年以来ベトナムで幾度となく行われてきた典型的な対ゲリラ作戦の一つに過ぎないと僕は考えています。
なので、PRUは秘密傭兵部隊などではなく、れっきとした政府軍の地方部隊の一つです。逆に言えば、プロジェクト・フェニックスと同等の掃討作戦が十数年間もの長きに渡って繰り返されたのがベトナムという戦場でした。
この部隊の目的はCIDG部隊とまったく同様(※)で、ベトコンの活動が疑われる地域に政府軍部隊が村落単位で駐屯し、その地域の防衛・防諜を担うと同時に、医療支援等の民事心理戦を行って住民をサイゴン政府側に抱き込む事を目的としていました。
こうする事によって、住民に対しベトコンへの関与があれば容赦なく攻撃するという脅しになると同時に、住民自身にサイゴン政府への帰属・自衛意識を芽生えさせてベトコンを密告させる等、敵に浸透する隙を与えない体制作りが作戦の肝と言えます。
これはまさしく、CIA・グリーンベレーが指導する対ゲリラ作戦の典型であり、ベトナム以外でも韓国や中南米、ラオス、タイでも成果を挙げた効果的な戦術でした。
※そもそものCIDG計画はこのように国境地帯の村落の防衛のみを目的としており、マイクフォース等の大規模な戦闘部隊への発展は後になって考案されたものでした。

LLDB訓練センター (1970年6月23日)

テコンドー道場

LLDB(Lực Lượng Đặc Biệt, 陸軍特殊部隊)訓練センターにおけるテコンドー訓練の様子です。
当時南ベトナムは韓国と強い同盟関係にあり、軍の徒手格闘訓練にも韓国から伝わったテコンドーを取り入れていました。
胸に太極旗をつけた黒帯のインストラクターは韓国人のようですが、韓国軍アドバイザーなのか民間のテコンドー指導者なのかは未確認です。

特筆すべきはLLDB隊員の道着で、左胸にLLDB部隊章、右胸に青地のネームテープが縫い付けられています。超カッコイイ!

CIDGへの訓練

上のテコンドー道場と同じくLLDB訓練センターで撮影されたCIDG部隊の訓練の様子。
背中側につけたアーモポーチが重さで揺れないよう、ポーチのベルトをサスペンダーに引っ掛けていますね。
また、帽子の内側が、ブリムの端の部分までレスキューパネル代わりのオレンジ色の生地になってて珍しいと思います。

CIDGへの徒手格闘訓練

LLDBによるCIDGへの訓練風景。LLDBとCIDGの関係がよく分かる動画だと思います。
CIDGは初めからLLDB所管の部隊であり、グリーンベレーはあくまでLLDB付きのアドバイザーという体でCIDGを指揮していました。


トゥドゥック歩兵学校(1971年10月)

トゥドゥック歩兵学校(Trường Bộ Binh Thủ Đức)における野戦訓練の様子。
校名は歩兵学校ですが、実際には陸軍の予備士官学校です。詳しくは過去記事『陸軍予備士官候補生(SVSQTB)』参照


ドンデー下士官学校(1971年10月)

ドンデー下士官学校(Trường Hạ Sĩ Quan Đồng Đế)における訓練の様子。
助教のヘルメットのマーキング、側面は見えるけど正面の図柄が未確認なので気になります。


婦人兵学校(1966年)

婦人兵学校(Trường Nữ Quân nhân)で教鞭をとるアメリカ陸軍WACアドバイザーを取材した映像です。
ベトナム人の女性教官が婦人兵学校のパッチをつけているのに注目!実際にこのパッチが使われてるの初めて見ました。

婦人兵学校の部隊章


この他にも、非常に良い映像がまだまだ山ほどありました。
今後もぼちぼち載せてみようかと思います。

  


2014年01月20日

あなたはなに族?

以前『CIDGの人々』の記事で紹介したように、CIDGにはデガ(タイグエン地方に住むモンタニヤード)以外にも多数の少数民族やキン族(ベトナム人)が所属していました。また、デガも大きく分けてオーストロネシア(マラヤ・ポリネシア)系とモン・クメール系の二派が居り、合わせて20以上の部族が存在していました。
この中で、ぱっと顔を見て明らかにキン族と違う人種だなと分るのは、ジャライ族・ラーデ族等のオーストロネシア系のデガと、同じくオーストロネシア系ですがベトナム中南部の沿岸地域に住んでいるチャム族くらいですかね。
一方、モン・クメール系のデガやクメール族はけっこう色黒ですが、キン族にも色黒で顔が濃い人も居るので、顔だけでは判断できません。
ヌン族に至っては比較的色白の人も多いし、顔もキン族と似通ってるので全く区別つきません。(そのお陰で人種迫害が比較的少なかった)
なので、当時の写真を見ても、撮影者が「○○族」とはっきり書いてない限り、見た目だけでどの人種か判断するのはけっこう難しいのです。

▲マイクフォースのヌン族兵士 キン族と見分けるの無理です


だけど、僕は彼らが何族なのか知りたい!
人種が違えば言葉も文化も宗教も、戦う理由もみんな違うんです。
彼らはただ、マジョリティのキン族に対して人口が少ないというだけで、少数民族という固有の集団ではないのですから。

という訳で、写真に写っているCIDG兵士がどの民族なのか手っ取り早く予想する方法を考えました。(あくまで予想ですが)


CIDG計画のそもそも目的はただ少数民族を兵士に仕立てるのはなく、彼らの家族もろともキャンプ周辺に移住させて戦略村を構成し、彼ら自身に共産勢力の掃討・自衛をさせるというものでした。
そのためCIDGキャンプは基本的に彼らが生まれ育った土地にあり、出撃する範囲もその周辺のため、全滅でもしない限りそこから動く事はありません。
つまりCIDG部隊の写真が撮られた場所は、そのまま彼らの出身地である可能性が高くなります。
この事から、撮影場所が分かっている場合は当時のベトナムの人種分布図と照らし合わせると、おおよその人種が特定できるのです。

▲5th SFGA(グリーンベレー第5特殊部隊群) Aチームの配置(1967年)

▲ベトナムの人種分布(1973年)

  
▲デガの民族分布詳細(1970年)


また撮影場所が分からなくても、部隊名さえ分かれば5th SFGAのキャンプ地を特定できます。
(以下グリーンベレーアソシエーションのサイトから無断転載w)

HQ 5th Special Forces Group (ABN) Nha Trang  
A-501 Hoi An   
A-502 Trung Dung   
A-502 Outposts:  Soui Dau,  Binh Tan, Thuy Thu, My Loc / Nui Ti, Da Hang, Ngoc, Dong Ba Thin 
 A-503 Country-wide Mike Force Detachment 
A-504 Mike Force 
A-521 Dong Ba Thin 
 Signal Company

C-1 (Co. C) Da Nang
               Nam Dong
               A-101 Khe Sanh / A-101 Lang Vei / A-101 Mai Loc
              A-102 A Shau / A-102 Tien Phuoc  / A-102a Aloui FOB
              A-103 Gia Vuc
              A-104 Ha Thanh / A-104 Son Ha
              A-105 Nong Son / A-105 Kham Duc
              A-106 Ba To
              A-107 Tra Bong
              A-108 Minh Long 
              A-109 Thuong Duc
              A-110 Con Thien
       B-16 Mobile Strike Force (aka MIKE Force) DaNang
              A-100 MSF Detachment
              A-111 MSF Detachment
              A-113 MSF Detachment
              A-114 MSF Detachment
      B-11 Chu Lai 

C-2 (CO. B) Pleiku 

                   A-212 Phi Ho / A-212 Plei Mrong
                   A-218 Dak Sut
B-22 An Khe / B-22 Qui Nhon
                    A-220 Plei Ta Nagle
                    A-221 Kannack / A-221 Cung Son
                    A-222 Dong Tre / A-222 Bu Prang
                    A-223 Van Canh / A-223 Qui Nhon
                    A-224 Buon Beng / A-224 Phu Tuc
                   A-225 Le Hai
                   A-226 Trai Mai Linh  / A-226 Mang Buk
                   A-227 Ha Tay
                   A-228 Vinh Thanh Formerly A-211
       B-23 Ban Me Thout
                   A-231 Suoi Doi / A-231 Tieu Atar
                   A-232 Buon Brieng / A-232 Bao Loc / A-232 Tan Rai
                   A-233 Trang Phuc / A-233 Buan Ea Yang / A-233 Buon Mi Ga /A-233 Ban Don / A-233 Tieu Atar
                   A-234 An Lac / A-234 Phey Srunh
                   A-235 Nhon Co
                   A-236 Bu Prang  / A-236 Lac Thien
                   A-237 Luong Son
                   A-238 Phouc Thien / A-238 Buon Blech
                   A-239 Duc Lap 
         B-24 Kontum   
                   A-241 Polei Kleng
                   A-242 Dak Pek
                   A-243 Plateau GI
                   A-244 Dak To   / A-244 Ben Het  / A-244 Dac Pek
                   A-245 Dac Seang 
                   A-246 Mang Buk
                   A-244 Ben Het
          B-25 Pleiku (Closed in Aug '66. The A-25x teams placed under B-24) 
                   A-251 Plei Djereng
                   A-252 Plei Mrong  /( A-252 Plei Djereng ??)
                   A-253 Duc Co
                   A-254 Plei Do Lim
                   A-255 Plei Me

          B-20 Mobile Strike Force (aka Mike Force) Pleiku 
                  A-213 MSF 
                         Blackjack 22 

                  A-204 MSF Kontum
          Mobile Strike Force Quin Nhon
                   A-217 MSF Pleiku
                   A-218 MSF Pleiku
                   A-219 MSF Pleiku
          
            Eagle Flight 
                  

C-3 (Co A) Bien Hoa 
                     B-31 Phuoc Vinh / B-31 Xuan Loc
                             A-311 Tan Linh / A-311 Hiep Hoa
                             A-312 Phuoc Vinh / A-312 Xom Cat / A-312 Cao Bien
                   B-32  Tay Ninh   
                            A-321 Ben Soi
                            A-322 Katum  / A-322 Prec Loc  / A-322 Sui Da
                            A-323 Thien Ngon  / A-323 Trai Bi
                            A-324 Nui Ba Den
                            A-325 Bao Don / A-325 Duc Hue
                            A-326 Tra Cu   / A-326 Ben Cat / A-326 Go Dau Ha     
                   B-33 An Loc (AKA: Hon Quan)
                            A-331 Loc Ninh
                            A-332 Minh Thanh 
                            A-333 Chon Thon / A-333 Chi Linh
                            A-334 Tong Le Chon 
                    B-34 Song Be
                             A-341 Bu Dop   A-341 Bu Ghia Map   
                             A-342 Dong Xoai
                             A-343 Duc Phong
                             A-344 Bunard
                     B-35 Duc Hoa  / B-35 Hiep Hoa
                             A -351 Duc Hue  / A-351 Hiep Hoa
                             A-353 Lung Hoa  / A-352 Tra Cu
                     B-36 Mobile Strike Force (aka MIKE Force) Long Hai
                             A- 301 Trang Sup / A-301 Ben Cat
                             A-302 Bien Hoa
                             A-303 Ho Ngoc Tau
                             A-304 Tanh Linh A-304 (TF-966) training/staging out of Trang Sup
                             A_361 
                             A-362 Long Hai
                                        FOBs at: Bu Dop, Song Be, Katum, Rang Rang & others
                             A-363 Long Hai

C-4 (Co. D) Can Tho 
Effective 1 June 1967 numbers for Military Region 4 camps were changed to correspond with parent B Detachments. [Chart of camps effected by change.]     
                    B-41 Moc Hoa
                            A-410 Binh Thanh Thon
                            A-411 Bien Hung / A-411 My Phuoc Tay Opened as A-424 
                            A-411 Don Phuc / A-411 Hai Yen
                            A-412 Kinh Quan Hai II 
                            A-413 Binh Thanh Thon
                            A-414 Moc Hoa / A-414 Thanh Tri
                            A-415 Tuyen Nhon
                            A-416 My Dien II
                    B-42 Chao Doc  /  B-42 Long Xuyen
                            A-421 Nui Tuong / A-421 Ba Xoai
                            A-422 Long Khanh / A-422 Vinh Gia
                            A-423 Chau Lang / A-423 Tien Binh
                            A-424 An Phu / A-424 Thanh Tri
                            A-426 Tri Ton 
                    B-43 Chi Lang   / B-43 Cao Lanh / B-43 Long Hai / B-43 Phuc Thuy 
                            A-431 Cai Cai
                            A-425 An Long / A-432 Thuong Thoi / A-432 Chi Lang Opened as A-425
                            A-433 My Da/ My An (A-426)
                            A-428 
                    B-44 Phu Quoc
                            A-441 Phu Quoc Opened as A-427
                            A-442 Tan Chau / A-442 Phu Quoc / A-442 To Chau
                            A-435
                    B-40 Mobile Strike Force (aka MIKE Force)
                            A-401 / A-430 Don Phuc Opened as A-430 
                            A-402 MSF, Moc Hoa / A-402 MSF, To Chau
                            A-403 MSF, To Chau  
                            A-404 MSF 
                            A-405 MSF, Ha Tien Opened as A-421

 

C-5 (Special Operations)
      B-50 Project Omega
      B-51 VNSF Training Center
      B-52 Project Delta 
      B-53 Long Ton
      B-55 Mobile Strike Force Nha Trang / B-55 Saigon
      B-56 Project Sigma
      B-57 Project Gamma 
      Mobile Strike Force Training Center 

Provincial Reconnaissance Unit

Phoenix Project

UITG /FANK 
FIELD Training Command

402nd SOD
403rd SOD 

281st Assault Helicopter Company, 5th Special Forces Group 


31st Engineer Det 

1st Special Forces Group (ABN)
3rd Special Forces Group (ABN) 
5th Special Forces Group (ABN)
7th Special Forces Group (ABN) 
6th Special Forces Group (Abn)
8th Special Forces Group (ABN) 
10th Special Forces Group (ABN) 
11th Special Forces Group (ABN) 
46th Special Forces Company (ABN): Thailand 
12th Special Forces Group (Abn) 
19th Special Forces Group (Abn)
20th Special Forces Group (Abn)
77th Special Forces Group (Abn) 
Detachment "A" Berlin Brigade 
Special Forces Training Group: Staff
Special Warfare School: Staff
8231st SOD (ODA 16) 

Son Tay Raiders

MACV SOG 
        FOB 1 Phu Bai
        FOB 2 Kontum
        FOB 3 Khe Sanh
        FOB 4 
       Command and Control North: CCN Da Nang 
       Command and Control Central: CCC Kontum
       Command and Control South: CCS Ban Me Thuot 

       Joint Personnel Recovery Center JPRC

 Joint Casualty Resolution Center JCRC

MACV Recondo

MACV Advisory Team 92 
MACV Advisory Team 93
MACV Advisory Team 100
MACV Advisory Team 31 Phu Bon
MACV Advisory Team 17 Ha Thanh
MACV Advisory Team 85 22 TASS Moc Hoa
MACV Naval Advisory Group ATF-212 Moc Hoa


例えばこの写真


撮影者が部隊をA-251であると明記しているので、とりあえずそれを信用。
上の一覧からA-251のキャンプ地はプレイク省西部"Plei Djereng"である事が判明。
で、Plei Djerengの位置を先の民族分布図と照らし合わせると、オーストロネシア系のデガ、ジャライ族の生活地域だと言う事が確認できます。
他に隣接する部族も無い事から、この写真に写っているCIDG兵士はジャライ族の可能性が高いと考えられます。(確認は出来ませんが)


ただし、ヘリボーン・空挺降下による機動部隊MSF(マイクフォース)が誕生すると、隊員の出身地から離れた遠方まで出撃できるようになった為、出撃した先の地名では出身地には結びつきません。あくまでベース、キャンプ地を把握する必要があります。
また、5th SFGAのC-5(MSFコマンドやBチーム・プロジェクト~系)やC&C(所謂MACV-SOG)など一握りの優秀な兵士だけが入れるエリート部隊は、言わば出稼ぎなので一般のCIDG部隊のように作戦が終わるたびに自分の村があるキャンプ地に帰る事はありません。従ってこれらの部隊では、当事者の証言以外で人種を確認する事は難しいと思います。

つまり・・・、この方法は、部隊もしくはキャンプ地が判明している一般的なCIDG部隊でしか役に立たないんです(泣
なんか大げさに書いたけど、役に立つ状況は限定的です。お恥ずかしいw


ちなみにベトナム戦争後、ヌン族は他の少数民族ほど激しい迫害を受けませんでしたが、やっぱり少なからずキン族からの差別があるので、ヌン族である事を隠し自らキン族と同化する道を選んだ人も多かったようです。
しかし近年になってベトナム共産党の締め付けが緩んだ事もあり、中国由来のヌン漢字(ヌンノム)と中華文化を継承しているヌン族の中には、自らをホア族(=華僑)と名乗る人が増えたそうです。
ただ、ヌン族が継承しているのは数世紀前の文化であり、本来のホア族・華僑とは言葉も文化も全然違います。正直、漢字以外に共通点ありません。
でも、ベトナムでは華僑と名乗った方が金持ちっぽくて箔が付くらしいです。なんじゃそりゃ?
華僑も少数民族のはずなんですが、ベトナムでは迫害されるどころか中世から現在まで体制に関わらず一定の権力を握り続けていますね。
その狡猾さ、力強さは、他の少数民族からしたら確かに羨ましい物なのかも知れません。
  


2014年01月13日

自作品

これまでナム戦イベントやコスプレ用に自作してきたアイテムをご紹介しますー


トリコロール・ネッカチーフ

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2013年12月27日

CEFEO空挺部隊


南ベトナム軍を調べていると、必然的にその前身であるフランス軍に興味が沸いてきます。
中でも第1次インドシナ戦争時代の空挺部隊(Troupes Aéroportées)が超カッコいいんですわ。


しかしフランス軍の空挺部隊って、なんか部隊名がコロコロ変わってて、どういう組織だったのか全体像が分かりにくかったんです。
なので今回は、第1次インドシナ戦争でベトミン軍と戦ったCEFEO(極東フランス遠征軍団)の空挺部隊の変遷をまとめてみました。
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2013年12月09日

モン族を想って

一昨年のニュースですが、衝撃的な事件だったのでご紹介します。

『元フランス軍大佐、モン族への迫害に抗議し自殺』

ソース
RFI
laststandonzombieisland


 現在のベトナム北部・ラオス・タイ・中国南部には"モン族(hmong)"と呼ばれる少数民族が暮らしています。彼らはフランス領インドシナ時代"モンタニャール(山地民)"と呼ばれ、他の少数民族と同様に、多数派のベトナム人やラオス人からの迫害を避け自治権を得るために長らくフランス軍に協力していました。
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2013年12月07日

資料メモ

僕の趣味である南ベトナムや少数民族の歴史に関する本ってその辺の本屋や図書館にはなかなか置いてないので、何度か国会図書館に通って資料探ししてるんですが、さすがに日本最大の図書館。けっこう日本語の本も出てきますね。
興奮して色んな本から数十ページ分コピーしてきましたが、コピーするまでもない少量の記述に関してはメモしてきました。
そのメモを以下に記します。あくまでメモなので、雑多な状態ですが、興味のある方はどうぞ。
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2013年12月01日

NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[3]

※2016年11月7日更新
※2022年10月22日更新


 1963年11月のクーデター後、ジェム総統とその側近タン大佐の私有機関であった"総統府連絡部"は解体され、その機能は総参謀部(BTTM)に移された。同じくタン大佐が創設した陸軍特殊部隊(LLDB)もBTTMの管理下に置かれ、以後LLDBは対外工作任務から外されアメリカ軍特殊部隊と共に国境および村落の準軍事防衛戦力=CIDG計画の運営に当たった。対外工作については、BTTMの下に新たに連絡部(Sở Liên Lạc/リエゾン・サービス)が設置され、連絡部のコマンド部隊がラオス、カンボジア領内への越境偵察を行う事となった。


開拓部(SKT / SES)

 1964年初頭、BTTMは旧総統府連絡部が行っていた北ベトナムへの長期間の潜入工作を引き継ぐため、新たにBTTM直属の特殊作戦機関開拓部(Sở Khai thác / Special Exploitation Service)を設置し、初代司令官にはチャン・バン・ホー大佐が就任した。
 SKTはサイゴンのBTTM本部に併設された司令部、ゴ・テー・リン大佐が新たに設立したダナンの沿岸警備部(Sở Phòng vệ Duyên hải) 、空挺教育を行うロンタンのクエッタン訓練センター(TTHL/Quyết Thắng)、および南ベトナム空軍の航空支援部(Sở Không yểm)から構成されていた。

▲チャン・バン・ホー大佐
SKT司令(1964~1968年)

開拓(1964年)の編成
・本部(サイゴン)
・沿岸警備(ダナン)
・航空支援(ニャチャン)
・クェッタン(必勝)訓練センター(ロンタン)

 SKTと米軍SOG空挺作戦部門(SOG-34/ABN OPS)の共同作戦として1964年に始まった34アルファ作戦(OP-34A)は一定の成果を挙げていたが、1964年後半には北ベトナム軍はホーチミン・トレイルを介して南ベトナムへの浸透を強めていた。これに対抗するため、それまでBTTM直属の独立した機関としてSOGと共同でC&C(コマンド&コントロール)部隊を編成していた連絡部(Sở Liên Lạc/リエゾン・サービス)は、1965年1月にSKTに編入された。
 また1965年からは沿岸警備部(SPVDH)指揮官ゴ・テー・リン大佐がSKT副指令となり、1970年までSOGと共にインドシナ半島における全ての特殊作戦の実務を担った。

▲ゴ・テー・リン大佐
SKT沿岸警備(SPVDH)司令(1964~1965年)
SKT/NKT副司令(1965~1970年)


技術部(SKT / STS)

 開拓部(SKT)は規模の拡大に伴い、1966年に技術部(Sở Kỹ Thuật / Strategic Technical Service)へと改称された。(越語略は変わらずSKT)
 また、不正規戦における対ゲリラ戦術としてSKT内に心理戦部(Sở Tâm Lý Chiến)が設置され、政治戦総局(TCCTCT)の心理戦局(CTLC)およびSOG心理作戦部門(SOG-33/PSYOPS)と共同で各種の心理作戦を行った。チューホイ計画(Bộ Chiêu Hồi)は、敵支配地域に投降を促すビラを散布したり、スピーカー放送による呼びかけを行い、多数の北ベトナム兵やベトコンから投降・転向者を引き抜くことに成功した。さらに"母なるベトナム"、"聖剣愛国戦線(OP-39作戦)"、"南部の声"、"クメールの声"、"インドシナ民族戦線"といった秘密ラジオ放送を敵側に送信し続けた。この中には単に敵の戦意を削ぐだけでなく、もともとベトナム人を嫌っているカンボジアの共産ゲリラ"クメール・ルージュ"に対し、カンボジア領を往来する北ベトナム・ベトコンとの対立を煽り、共産主義勢力内での内紛を意図する放送もあった。

技術(1966年)の編成
・本部(サイゴン)
・連絡(サイゴン) 
・航空支援(ニャチャン)
・沿岸警備(ダナン) 
・心理戦(サイゴン)
・クェッタン訓練センター(ロンタン)

▲SKT司令チャン・バン・ホー大佐と、MACV-SOG司令ジョン・シングラウブ大佐(1966年)

 1967年、SKTおよびSOGは北緯17~20度のラオス・ベトナム国境地帯におけるSTRATA(短期監視・目標捕捉)偵察計画"OP-34B"を実行するため、第11グループ(Liên Đoàn 11 )を編成した。第11グループはダナンに本部を置く空挺偵察部隊であり、一チーム12人編成のSTRATAチームが9チームで構成されていた。STRATAチームはその名の通り、少人数で敵勢力下に空挺降下して短期間のロードウォッチ任務を行う機動力の高い部隊であった。STRATAチームの運用指揮はSOG空挺作戦部門(ABN OPS/SOG-34)が担い、非常に高い成果を挙げた。1967年12月、SOG空挺作戦部門(SOG-34/ABN OPS)はSOG工作部門(SOG-36/AGENT OPS)へと改称され、北ベトナムへの長期潜入を行うOP-34AはOP-36Aへ、STRATAは"OP-36B"へと改められた。
 STRATAチームは敵交通路およびホーチミン・トレイルの偵察、通信傍受、敵施設の偵察、空爆目標の捕捉の訓練を受けており、1968年以降は北ベトナム軍がそれまでと侵攻ルートを変えてきた事から、目標捜索を行うSTRATAの出動は急増した。

▲北ベトナム軍に偽装して北に潜入する第11グループSTRATAチーム111(1967年)


技術局(NKT / STD)


 さらにSKTは1967年11月、SOGとの共同作戦により適した組織体制となるべく更に組織を拡大し、技術局(Nha Kỹ Thuật / Strategic Technical Directorate)へと改称された。NKT司令はBTTM参謀長カオ・バン・ビエン大将の直接指揮下にあり、BTTMは国家安全保障会議の投票を経ず、グエン・バン・テュー総統の一存でNKT指揮官にドアン・バン・ニュー大佐を任命した。

▲カオ・バン・ビエン大将
BTTM参謀長(1965~1975年)

▲ドアン・バン・ニュー大佐
NKT司令(1968~1975年)

▲MACV-SOG本部における勲章授与式
MACV-SOG司令ジョン・サドラー大佐(左端)と、NKT司令ドアン・バン・ニュー大佐(右端)

 1968年、OP-34Aから発展した敵地への潜入工作作戦OP-36Aの実行機関として、NKT内に新たに第68グループ(Liên Đoàn 68)が編成された。第68グループは本部をサイゴン、分遣隊をコントゥム基地に持ち、ヘリコプターからの空挺降下や、海上から沿岸へ上陸するなどして北ベトナム・カンボジア・ラオスへの長期潜入作戦を行う。彼らの主な任務は総参謀部の戦略基盤となる敵情の把握であり、国境を越えて南側へ侵攻する北ベトナム軍を捜索・監視し続けた。
 第68グループは共産軍を装って敵支配地域に長期間潜入する二つの潜入チーム"アースエンジェル"および"パイクヒル"から成る。アースエンジェルは1969年初頭に編成され、北ベトナム軍に変装して敵地へ潜入、偵察や破壊工作を行う。また、抜き打ちで味方部隊を襲撃して対処能力を評定するOPFOR(仮想敵)任務も行った。
 パイクヒルは南ベトナム領内に住むクメール族(KKK)で構成され、カンボジアの共産ゲリラ"クメール・ルージュ"を装って潜入した。当初、作戦地域はカンボジアが主であったが、後にラオスへまで拡大し、空挺降下後2ヶ月間に渡り敵の往来状況を報告したり、B-52による爆撃の観測・効果判定を行った。 
 
▲第68グループ チーム"アースエンジェル"(1971年)

技術局(1968年)の編成
・本部(サイゴン)
・連絡(サイゴン) 
・第11グループ(ダナン)
・第68グループ(サイゴン)
・航空支援(ニャチャン)
・沿岸警備(ダナン) 
・心理戦(サイゴン)
・クェッタン訓練センター(ロンタン)


連絡部(SLL / Liaison Service)

 
▲連絡"コマンド雷虎"

 1963年11月のクーデターの後、総統府連絡部は解体され、新たにラオス・カンボジア領内への越境偵察作戦を行う連絡部(Sở Liên Lạc/リエゾン・サービス)がBTTMに設置された。司令官にはホー・テュー大佐が任命された。連絡部は偵察・目標破壊・空爆目標捕捉に特化したコマンド部隊"雷虎(Lôi Hổ)"の編成訓練をサイゴン東部ロンタンに位置するクェッタン訓練センターにおいて行い、1964年4月より本格的な活動を開始した。
 連絡部は第1~第3戦闘団(Chiến Đoàn)のコマンド雷虎で構成され、米軍SOG空挺作戦部門(SOG-35/ABN OPS)と共同でC&C(コマンド&コントロール)を構成した。以後、連絡部はSOGの支援の下規模を拡大し、1965年1月にSKTに編入された。最終的に連絡部は司令部と6個の雷虎タスクフォースFOBから成り、そのうち司令部と3基地はサイゴンに配置された。
 C&Cのコマンド雷虎は第1タスクフォースがダナン(CCN)、第2タスクフォースがコントゥム(CCC)、第3タスクフォースがバンメトート(CCS)に駐屯し、それぞれの複数の前進作戦基地(FOB)、十数個の偵察チーム(RT・スパイクチーム)、基地警備中隊、そして南ベトナム陸軍分遣隊および民間防衛隊司令部を有していた。各C&Cは1500~3000名以上の雷虎隊員その他ベトナム人と、それを運用指揮する160~570名のSOG(ほとんどが陸軍5thSFG)隊員で構成されていた。このようにC&Cは南ベトナム軍連絡部を中心とした組織であったが、作戦・資金・運用ノウハウの面ではSOGに依存する部分が大きかった。
 

   
▲SOGおよびC&C(CCN, CCC, CCS)の組織図

【FOB所在地の変遷】
FOB1
1965年~:フバイ(トゥアティエン省)、フエ(トゥアティエン省)
1966年~カムドク(クアンナム省)

FOB2
1965年~:コントゥム(コントゥム省)

FOB3
1965年~:バンメトート(ダルラク省)、コントゥム(コントゥム省)
1968年~:ケサン(クアンチ省)

FOB4
1965年~:ノンヌォック・ダナン(クアンナム省)

FOB5
1965年~:バンメトート(ダルラク省)
1968年~:トゥドゥック(サイゴン市)

FOB6
1965年~:ダラット(トゥエンダグ省)
1968年~:ホー·ゴック·タオ(サイゴン市)

    
▲コマンド雷虎の軍服
C&C部隊では米軍から支給された野戦服を着ている場合が多いが、サイゴン駐屯部隊や米軍撤退以降は南ベトナム軍式の軍服を着ている

  
▲C&Cを運営するSOG-35アドバイザー分遣隊

    
▲C&CのRT(偵察チーム)
ミリタリー界隈ではこのRTを指してMACV-SOGという呼称が使われているが、実際のSOGは南ベトナム軍SKT/NKTが行う諜報・心理戦・教育などの特殊作戦全般へのアドバイザー機関であり、その中のSOG-35(ABN OPS)が支援する連絡コマンド雷虎の地方部隊がC&Cであり、さらにその中の各FOBに所属する偵察部隊がRTである。

    
▲RTには明らかにCIDGと思われる少数民族が多数所属している
CIDGはもともとLLDBが所管する南ベトナム軍の部隊であり、64年以降は希望者は正規の軍人として登用されため、彼らの身分はSKT/NKT連絡だと思われる。