2024年04月23日
ベトナム戦争末期の海兵隊
日曜日に友人とプチ撮影会を行ってきました。
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3年近く前に作ったっきり着る機会の無かったハンティングウェア改造のTCU型ザーコップ(5th/レイトウォーラージ・パターン)をようやく着ることが出来ました。
【製作記】
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上着を作った時点ではパンツを持っていなかったので、それも自作するしかないと思っていましたが、その後幸運にもギリギリ履けるサイズの実物(カーゴ型)パンツが手に入りました。生地はリップストップです。
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キャップもリップストップ生地のものです。
最近作られた物でない事は確かなのですが、古い時代のレプリカは出来が良いので真贋はよく分かりません。
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2024年04月21日
VIPの謎服
ベトナム陸軍の歴代の制服については過去記事『ベトナム陸軍の制服 1949-1975』でまとめましたが、今回はそういった一般的な制服ではなく、一部の重要人物だけが着用している特殊な制服・徽章についてです。
とは言え、特殊なだけあってなかなか資料が見つからないので、詳しい事は何も分かりません。今回はただ、こういうのも有ったよと紹介するだけになります。
グエン・フク・バオ・ロン皇太子の大礼服
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バオダイ(保大帝)の長男である皇太子グエン・フク・バオ・ロンが、ベトナム国軍陸軍士官候補生時代(撮影は1953年以前)に撮られた写真です。
制帽の帽章のデザインはベトナム陸軍なので、これがベトナム軍の軍服である事は間違いないのですが、他の士官候補生による着用は一例も見られないので、この服は皇太子バオ・ロン専用にデザインされた礼服のようです。
またこの写真の撮影地は不明ですが、当時バオ・ロンはフランスのサンシール士官学校に留学していたので、もしかしたらこの服もフランスで製作された可能性があるかも知れません。
なお父のバオダイが1955年にゴ・ディン・ジェム首相のクーデターでベトナムから追放されたため、バオ・ロンは父と共にそのままフランスに亡命します。
その後バオ・ロンは自分をフランス陸軍将校として採用するようフランスに要求しますが、フランス政府はバオロンを外国籍と見做し、正規のフランス軍人とは認めませんでした。
(かつてはベトナム等の植民地出身者も準フランス国民と見做され、ド・ヒュー・ヴィ大尉等、正規のフランス軍将校として採用された例はありました。しかし1954年のジュネーブ協定でベトナムは植民地ではなく、完全に対等な「外国」という扱いに変わっていたため、バオ・ロンについても外国人と見做されてしまいました。)
しかしそれでもサンシールでの士官教育を修了したバオ・ロンの経歴は高く評価され、特別に外人部隊の将校として採用されます。そしてバオ・ロンは外人部隊の機甲偵察部隊指揮官としてアルジェリア戦争に出征し、いくつもの武功を上げる事となります。
グエン・カイン大将の大礼服
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グエン・カイン陸軍大将が1964年にクーデターで政権を握り、自らを国家元首「国長」に定めた後に着ている礼服です。
一見すると1963年頃まで使われていた通常の陸軍大礼服に似ていますが、上着に襟章は付かず、胸ポケットがあり、海軍の白詰襟のようなスタイルです。またパンツも白色となっており、明らかに通常の大礼服とは異なります。
チャン・ゴック・タム中将のベレー章
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このベレー章もチャン・ゴック・タム中将一人しか着用例が見られません。
この写真の撮影年はタム中将が第3軍団司令だった1964年4月から10月の間と思われ、その時期はちょうど軍上層部同士でクーデターが乱発されていた時期なので、その政変の中で制定され消えていった短命な徽章だったのかもと推測していますが、正確な事は何も分かりません。
グエン・バン・テュー中将の襟章
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グエン・バン・テュー中将が軍事政権のトップにいた1967年頃にだけ着用している襟章です。
しかし、1969年発行の軍装規定書では、この徽章は「陸軍将官徽章」とだけ記載されています。
これでは着用例がテュー中将ただ一人、しかも1967年頃限定でしか見られない事と大きく矛盾します。
せっかく一次史料があるのに、それが現実と矛盾しているとか、勘弁してよ~
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なおテュー中将は1965年にクーデターでグエン・カイン大将を追放し政権を握った軍事政権の長であった一方、国民および(西側)国際社会からの支持を得るには議会制民主主義と文民統制の形式が必要と考え、1967年には自ら軍を辞職し、一政治家に転身して、1963年のゴ・ディン・ジエム政権崩壊以来途絶えていた総統選挙を実施します。
その結果テューは総統に当選し、以後ベトナムは共産軍との激しい戦いを抱えながらも、同時にテュー政権の下で民主化と経済発展を進める「第二共和国」時代を迎えます。
2024年04月11日
ベトナム軍衛生士官候補生の階級章
※2024年4月12日更新
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ベトナム軍の軍医の卵、「衛生士官候補生(Sinh Viên Sĩ Quan Quân Y)」の階級章は、他の士官学校と同様に士官候補生を表すアルファ(通称「魚のフライ」)の意匠が用いられていますが、当時の写真ではそのアルファの下に追加される図柄には、ダラット国家武備学校のような金色の棒(通称「鍋の取手」)が付く場合と、(海軍を除く)士官と同様のボンマイ(別名マイヴァン, ホアマイ)の花が付く場合の2パターンが見られ、その使い分けについては長年把握できていませんでした。
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▲左がボンマイのパターン、右が棒のパターンの例
特にボンマイは(海軍を除く)士官の階級章なので、それがまだ士官ではない士官候補生にアルファと一緒に使われているのは不可解でした。
そこで最近、SNSでベトナム軍ベテランに情報提供を呼び掛けたところ、核心に迫る情報をお寄せ頂くことが出来ました。
下の図はそれらをイラスト化したものです。
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まず、アルファの下の図柄が2パターン存在したのは年代によるもので、同時に存在した訳ではありませんでした。
そして1970年までボンマイの階級章が使われた理由ですが、これは衛生士官候補生は他の士官学校の士官候補生と異なり、入学した時点で士官(准尉)扱いになるためでした。
例えばトゥドゥック歩兵学校やドンデー下士官学校の予備士官課程では9か月のカリキュラムを終え卒業する事でようやく准尉に任官しますが、衛生士官候補生は入学すると同時に准尉扱いとなり、准尉の給与を得ます。さらにその後すぐに少尉扱いに昇進し、4年次以降は中尉扱いとなるそうです。
なので衛生士官候補生は正式な将校でなないのにも関わらず、アルファと共に准尉・少尉・中尉の階級章を用いていました。
しかし1970年、総参謀部はこの衛生士官候補生独特の階級章制度を廃止し、ダラット等他の士官学校と同じ、棒で年次を示す制度に改めたそうです。
そして1970年の前後いずれの場合も、衛生士官候補生は6年間の医師課程(医師・歯科医・薬剤師コースに分かれる)を修了すると、医師免許を取得し、軍医(Sĩ Quan Y Sĩ=医師士官)となり、正式に中尉に任官します。
なお、医師養成にかかる莫大な学費は国が負担しているため、軍医になった者は一定期間軍での勤務が義務付けられており、その期間を満了するまで自らの意思で除隊する事は出来ませんでした。
この衛生士官候補生を養成した衛生学校そのものについて書き出すと長くなるので、また改めて記事にしたいと思います。
2024年04月01日
4か月ぶりの撮影会
春の陽気に誘われて、今年一発目の撮影会を行ってきました。
念願だったこの年代の海兵の軍装をようやく再現できました。
今回の全体テーマは1965年頃のベトナム共和国軍地方軍です。
みんなで撮った後は、私個人のコスプレ。
個人装備を使いまわして、1962~65年頃のベトナム海兵隊です。
迷彩服は先日記事にしたVMSもどきです。
この服が有れば、1965年の『南ベトナム海兵大隊戦記』はもちろん、1963年11月クーデターごっこだって出来ちゃいます。
撮影が終わって気付いたのですが、一日中日光を浴びていたせいで、みんな日焼けしちゃいました。
つい1週間前まで寒さに凍えて暖房を使っていたのに、こんなに急に暑くなるとは。
気温の変化に身体が付いていけないのか、撮影のあと二日連続で頭痛がしています。
2024年03月17日
左側テープ
※2024年3月17日更新
※2024年3月18日更新
※2024年3月23日更新
※2024年4月12日更新
※空挺部隊のみネームテープが左側に付きますが、今回テーマにするのは、通常の「右側にネームテープが付く場合」の左側の(名前ではない)テープについてです。
I. 公式な物
①教育隊
教育隊で訓練中の兵・下士官・士官候補生では、左胸にその教育隊内での受講生番号(Danh số Khóa sinh)*や教育隊・受講課程名が入ったテープが着用されました。
※学校での出席番号のようなもので、軍人としてのID=軍籍番号(Số Quân)とは異なる
例1:ダラット ベトナム国家武備学校
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▲E24154は「士官課程第24期E中隊154番」の意
例2: クアンチュン訓練センター
▲A1B056は「クアンチュン教育隊A群第1大隊B中隊056番」の意
例3:ドンデー軍校および各訓練センター
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▲部隊名は入らず受講生番号のみのパターン
例4:砲兵学校
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▲CBSQは「Căn Bản Sĩ Quan(士官基礎)」課程の意と思われる。
②部隊独自に設定
基本的に教育隊以外で左側にテープが付く事はありませんが、稀に部隊毎に何らかの規定(役職)を左側テープで示す場合がありました。
しかしそれらは末端の部隊毎に独自に設定された物なので、資料が残っておらず、そのほとんどが詳細不明です。
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▲地方軍将校の例
II. 非公式な物
以下は全て、兵士個人がアメリカ軍のスタイル(左胸の軍種テープ)を真似て自費でオーダーメイドした非公式な軍種テープの例です。個人が勝手に作った物なので、軍装としての意味は特にありません。また使用例も極めて稀です。
例1: TQLC: Thủy Quân Lục Chiến (海兵隊)
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例2: HQVN: Hải Quân Việt Nam (ベトナム海軍)
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例3: VNARMY: Việt Nam Army (ベトナム陸軍)
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▲こちらは"ARMY"と英語表記になっているので、マニアによって「米陸軍付き通訳者と思われる」と解説される事があります。そうかもしれませんし、そうでないかも知れません。上で述べたようにこれら軍種テープは個人製作の非公式な物なので、テープと実際の役職を結びつける規定は何も存在しません。
例4: VNNAVY: Việt Nam Navy (ベトナム海軍)
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▲こちらは米海軍PBR部隊に出向しているベトナム海軍軍人です。アメリカ人が理解できるよう"NAVY"と英語表記になっています。
例5: VIET NAM: Việt Nam (ベトナム)
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▲こちらは軍種ではなく、単に国名=ベトナムとだけ書かれている、特に珍しい例です。
2024年03月06日
ベトナム海兵隊の歴代戦闘服
※2024年3月18日更新
※2024年11月28日更新
過去記事『ベトナム空挺の歴代戦闘服』の海兵隊版を作りました。
なお服のカットの名称については過去記事『ザーコップ:ベトナム海兵タイガーの分類』参照
1954年~1960年代初頭:仏軍TTA47系
1954年にベトナム海軍麾下の陸戦コマンド部隊として第1海軍歩兵大隊(後の海兵隊)が発足してからしばらくは、フランス連合期にフランスから供与されたTTA47系戦闘服が海兵隊で着用されました。
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▲実物のTTA47/52軽量型上衣
1957~1963年頃:ザーコップ(1st/VMX)
1957年頃、海兵隊の制式迷彩として、ベトナム初の国産迷彩であるザーコップ(タイガーストライプ)が開発されます。服のカットは仏軍「TTA47/52型」が主でしたが、1958年頃には2ポケット「肩当て型」も登場しています。
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1958~1965年頃:カーキ(オリーブグリーン)
陸軍と共通のカーキ(オリーブグリーン)作戦服です。裁断は「肩当て型」と、肩当てを排した「簡略型」があり、海兵隊では1960年代前半まで着用されました。
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1962~1968年頃:ザーコップ(2nd/VMS)
1962年頃に登場したザーコップの新色バージョン(パターンは1stとほぼ同じ)です。「肩当て型」、「エポレット型」に加えて、1964年には「迷彩服型」も登場します。
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1964~1969年頃:ホアズン(初期ERDL/インビジブルリーフ)
1948年に米軍ERDLで開発された迷彩パターンは、当の米軍で採用される事はなかったものの、その生地は1964年以降アメリカからベトナムへと輸出され、ベトナム軍空挺、レンジャー、海兵隊などのエリート部隊共通の迷彩服となりました。なお空挺、レンジャー部隊では「空挺型」が主でしたが、海兵隊では「迷彩服型」も散見されます。
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1966年~?:ザーコップ(3rd/VMS亜種)
1966年には2nd/VMSのパターンを一部変更したザーコップ迷彩服が登場します。
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※当時の写真では2ndと3rdは見分けづらいのですが、徽章の年代的に恐らく3rdと思われる写真
1967~1975年:ザーコップ(4th/VMD)
1967年にそれまでのVMS系ザーコップからパターンを大きく変更した4th/VMDが登場します。裁断は主に「迷彩服型」です。
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1967~1970年頃:ホアズン(66年型ERDL/グリーンリーフ)
米軍は長年放置してきたERDL迷彩を1966年に改良し、自軍の熱帯戦闘服(TCU)に採用するとともに、1967年にはベトナム軍に供与する迷彩生地もそれまでのインビジブルリーフから、この新型(66年型)/グリーンリーフに切り替えます。裁断は主に「迷彩服型」です。
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▲東京ファントム製レプリカ
1968~1975年:ホアズン(ベトナム国産ERDL/パステルリーフ)
ベトナム軍は1968年に米国製のERDL迷彩を国産化し、以後グリーンリーフはこの国産迷彩服/パステルリーフに更新されていきます。裁断は当初は「迷彩服型」で、1973年頃から「4ポケット」や「TCU型」も加わります。
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1973~1975年:ザーコップ(5th/レイトウォーラージ)
1973年頃にはタイで生産された民生タイガーストライプの一種である「レイトウォーパターン」がベトナムに逆輸入され、ベトナム海兵隊の制式迷彩(5th)として広まりました。裁断は「迷彩服型」、「4ポケット」、「TCU型」のいずれも見られます。
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2024年02月24日
VMSっぽい服
※2024年2月25日更新
2024年2月23日に投稿した同名の記事の中で、かなり大きな勘違いを載せてしまっていたので、あらためて書き直します。
最近ベトナムのĐLCHが、ベトナム海兵隊ザーコップ迷彩の中でも1962年頃に登場した「2nd/VMSパターン」と称する服を発売したので、試しに買ってみました。
なお通常ラインナップでは「迷彩服型」で販売されていますが、今回僕は特注で「肩当て型」を作ってもらいました。
(海兵隊ザーコップの分類と裁断については過去記事『ザーコップ:ベトナム海兵タイガーの分類』参照)
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ぱっと見悪くないと思います。
パターンを実物の2nd/VMSと比べてみるとこんな感じ。
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パターンを印象付ける黒い模様の部分は7割くらい再現できている気がします。でも他の色の部分は完全に架空のデザインです。
ま、ĐLCHの製品はとにかく値段が安い事が取り柄で、レプリカとしての再現度は期待できないと分かった上で買ったので、そんなに不満はありません。
「VMSの代用品」としては十分なので、コスプレ撮影用に使いたいと思います。
これまでベトナム海兵隊ザーコップのレプリカと言うと「4th/VMD」ばかりで、その他のパターンはなかなか商品化されてきませんでした。
そんな中、数年前に韓国の業者が恐らく史上初のVMSのレプリカを発売しましたが、あちらはパターンはちゃんとしているのに色を大失敗していたため、僕は買いませんでした。
そして今回のĐLCH製も、色はともかくパターンの再現が中途半端。
例の韓国の業者が同じパターンで色だけ修正して再販してくれたら最高なのですが・・・。なんか自信満々で、自分の間違いを認める気はなさそうなんだよな・・・。
なお今回、僕はこの服を1962~1965年頃の設定で着るつもりなので、今のところインシグニアは一切付けないつもりです。
海兵隊の各インシグニアの導入年は、次のようになっています。
・右胸の大隊色ネームテープ:1963年
・右胸の胸章:1966年
・右袖の大隊章:1967年?
海兵隊部隊章については、1960年に採用されたものの、実際に普及し始めるのは1965年頃です。
同様にネームテープも1963年にはすでに着用例があるものの、1960年代中盤までは着用が徹底されていませんでした。
なので1965年までは、作戦服に何のインシグニアも着用していない将兵が大勢見られます。
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1965年の『南ベトナム海兵大隊戦記』で有名な第2海兵大隊第2中隊長グエン・バン・ハイ大尉も、インシグニアを着用していません。
また過去記事『レプリカ海兵ベレー』で書いたように、この年代に合わせた海兵隊兵卒ベレー(1956年~1966年頃)はすでに準備済みです。
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振り返ってみれば、東大で南ベトナム海兵大隊戦記を鑑賞してから12年。ようやく、その年代の海兵の軍装が揃いました。
春になったらさっそく撮影会で着たいと思います。
2024年02月14日
ラオスの黒虎
※2024年4月29日更新
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※2024年6月8日更新
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こちらは言わずと知れたベトナム陸軍レンジャー部隊のトレードマーク「黒虎(Cọp đen)」ですが、実はこれと同じデザイン、と言うかこのレンジャー部隊章がそっくりそのまま同時期のラオス王国軍でも使われていました。
使用していた部隊はラオス陸軍第4軍管区SGU(特別遊撃隊)です。
SGUは米国CIA・タイ国境警備警察PARUアドバイザーの指揮下にあるラオス王国軍所属の不正規コマンド部隊で、構成員はラオス領内の少数民族。第4軍管区SGUではブル族などのラオ・トゥン人が主でした。
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ラオス陸軍では米軍式のSSI(左袖に部隊章縫い付け)の他に、部隊章を左胸ポケット上に着用する場合もあり、SGUでも同様の着用例があります。
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上の写真の2枚に写っている、部隊章の上に付いているタブはこちらと思われます。
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この部隊章は徽章だけでなく、基地内の装飾にも使われています。
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また、それこそベトナム軍レンジャーを模倣しているかのごとく、ヘルメットへの黒虎のマーキングも見られます。(ただし黒虎マーキングのヘルメットはベトナム軍レンジャーでは野戦で使用されたが、ラオス軍SGUでは式典用の正装としてのみ使用)
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そもそもベトナム軍とラオス軍どちらが先にこのデザインを作ったのか?
ベトナム軍でこの部隊章が制定されたのはレンジャー部隊が発足した1960年頃(遅くとも1961年)なのに対し、ラオス第4軍管区にSGUが発足したのは1967年、写真で着用例が確認できるのは今のところ1968年が最初なので、オリジナルはベトナム軍で間違いないと思います。
ではなぜSGUは他国の部隊章をそっくりそのまま採用したのでしょうか?
これも確たる情報は何もありません。しいて言えばラオスにとって南ベトナムは同じアメリカ傘下の同盟国であり、また第4軍管区はラオスで唯一南ベトナムと国境を接している軍管区でありますが・・・、これだけじゃ根拠が希薄です。何ならラオスにとってはベトナムよりも、同じタイ系民族のタイ王国の方がよっぽど深い関係にあります。(ラオス人諸国家は何百年にも渡ってシャム王国=タイと朝貢関係にあった)
なんか実はちゃんとした理由なんか無くて、単にたまたまベトナム軍レンジャー部隊章を知ったSGU幹部が、「それカッコいいじゃん!うちも使う!」と、他国のデザインである事なんか意に介さずパクっただけのような気がします。特にSGUは建前上はラオス軍所属ですが、実質的な指揮権はCIAにある民兵組織であり、構成員も低地ラオ族(ラオスの多数派民族)ではありません。そのためラオス軍としてのコンプライアンス意識は希薄であったと思われます。
という訳で、正確な事は何もわかりませんでした!いかがでしたか?
2024年01月30日
カオダイ軍じゃないベレー
※2024年1月31日更新
※2024年2月2日更新
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そう判断する理由は上の記事にまとめてあるので、今回はなぜこのような誤解が生じたかについて私見を述べてみます。
※カオダイ軍については過去記事『カオダイ軍の歴史[草稿]』参照
まず、誰が最初にこんな間違いを言い出したのかは分かりません。僕がベトナム戦争に興味を持ったころ(20年前)には、すでに欧米の本の多数がこのベレー章を『カオダイ軍のもの』と紹介しており、ちょっと知識のある人の間ではそれが常識になっていました。
しかし、この誤解が生じた原因なら見当が付いています。それは1955年に暗殺されたベトナム陸軍カオダイ部隊司令官チン・ミン・テー将軍の葬儀の写真です。
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▲1955年5月6日サイゴン
確かにこの葬列はカオダイ部隊の物であり、彼らは問題のベレー章を着用しています。
そのため、カオダイ部隊が着用しているベレー章=カオダイ軍のベレー章と解釈されてしまったのでしょう。
そして、この誰かの勘違いが、検証される事もなく鵜呑みにされ、様々な本に繰り返し掲載されてしまったというのが、ここ数十年のベトナム徽章コレクター界の実情です。
しかし実際には、このベレー章は、単なる陸軍ベレー章(1954-1967年)です。
この写真では、たまたまカオダイ部隊司令官の葬儀でカオダイ部隊が被っていたというだけで、実際には誰の葬儀でも、何の部隊でも関係ありません。
単純に、陸軍将官の葬儀で、陸軍兵が、陸軍ベレーを着用しているだけです。カオダイ教は何も関係ありません。
今日ではこの理解は、一流の研究者の間でようやく受け入れられつつありますが、そこまで熱心ではない多くのマニアは何十年も昔の本の記述にしがみ付き、未だに知識をアップデートできていないようです。
私が尊敬する先輩研究者であるフランソワ・ミラード氏は、2011年に海外のミリタリーフォーラムで、この「カオダイ教とは無関係」説を投稿したところ、それはもう喧々諤々だったそうです。
中には頑なにカオダイ軍説を信じる人も居たそうですが、そう言う彼らの中に、自ら検証したり史料を提示する者は一人として居ませんでした。
話は変わりますが、私は長年、この陸軍ベレー章が採用されたのは、ゴ・ディン・ジエムが政権を握りベトナム国軍(QĐQGVN)がベトナム共和国軍(QĐVNCH)に改編された1955年だと思い込んでいました。(階級章や帽章等はこの時新型に代わったので)
しかしある日、上で述べたミラード先生がこんな映像を提供して下さりました。
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▲1954年トゥイホア
1954年に撮影された映像に、例のベレー章が写ってるじゃないか!マジかよ。
これはけっこう衝撃的な事です。ベトナム軍の徽章類が大きく変わるのは1955年なのに、その前年にベレー章だけ先に採用されていたとは。
まだまだ知らない事が沢山あるなと思い知らされました。
さすがミラード先生だぜ。
2024年01月28日
クメールとベトナムの同盟
※2024年9月28日更新
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カンボジア(クメール王国)は1960年代を通じて、ベトナム戦争に対し「中立」を表明し直接戦闘には関与しない一方で、ベトナム共産軍がカンボジア領内を通行・拠点(ホーチミン・トレイル)とする事を許可し、またFULROによる反乱を支援するなど、ベトナム共和国(南ベトナム)に対する間接的な攻撃を続けていました。
しかし1970年にクメール軍のロンノル将軍がクーデターで政権を掌握すると、ロンノル政権(クメール共和国)はアメリカを盟主とする反共・西側陣営に転向し、同時に国内外の共産軍(クメールルージュおよびベトナム共産軍)との戦争に突入します。これに伴い、クメール共和国は共産軍を打倒するため、一転してベトナム共和国と同盟を結ぶ事となります。
この同盟は両国共にアメリカの傘下に入ったからこそ成しえたもので、両国の千年に渡る対立の歴史を鑑みると、これは非常に驚くべき出来事でした。
そもそもベトナム人国家は現在のベトナム北部(紅河流域)から始まり、そこから千年以上かけて徐々にクメールおよびチャンパ王国(チャム族)から領土を奪いながら南に拡張していった国でした。
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なのでクメール人にとってベトナム人は侵略者であり、現在のベトナム南部は18世紀にベトナム人に奪われるまで約800年に渡ってクメール人が支配していた土地、すなわち「奪還すべき自国の領土」でした。
そのためクメール人の間には強い反ベトナム感情が存在しており、それは1970年に起ったクメール軍による在カンボジア・ベトナム人虐殺事件の背景にもなりました。
(同様にチャム族やデガもベトナム人に征服された人々で、これが現在まで続くFULRO運動に繋がります)
しかし、こうした対立の歴史がありながらも、1970年のクメールとベトナムの同盟成立以降は両国の軍が歩み寄り、かなり親密な関係になります。
それまでクメールは中国・ソ連から細々と軍事物資を輸入していましたが、ベトナム戦争には参戦していなかったため、軍の規模も装備も、また能力的にも周辺国と比べるとかなり遅れていました。(周囲のベトナム、ラオス、タイはアメリカからの強力な軍事支援を受けていた)
そこで1970年にクメール共和国が成立すると、クメール軍は自国の兵士の訓練を、実戦経験も訓練設備も豊富なベトナム軍とタイ軍に頼るようになります。そして多くのクメール兵がベトナム領内で訓練を受けた後、クメールルージュとの戦闘に投入されました。
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▲ベトナム軍訓練センターで訓練中のクメール軍新兵 [1970年ベトナム・フクトゥイ省]
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また同年、ロンノル政権の承認の下、ベトナム軍がホーチミン・トレイルを叩くためクメール領内に進攻(カンプチア作戦)を開始すると、ベトナム軍とクメール軍は連携して作戦を行い、共産軍に大打撃を与えることに成功します。
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▲クメール軍第2軍管区本部で合同で指揮を執るクメール軍・ベトナム軍将校[1970年カンボジア・コンポンスプー]
顎に手を当てている人物がクメール軍第2軍管区司令ソーステン・フェルナンデス将軍で、ベレーを被った2人がベトナム軍将校。
フェルナンデス将軍は当初シハヌーク派と見做されロンノル将軍のクーデター時に失脚しかけますが、後にロンノルの信頼を得て1972年からはクメール軍総参謀長を務めます。
こうした協力関係から、両国の将校の中には、互いの階級が認識できるよう、相手国の階級章を身に着ける例も一部で見られました。
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▲右襟にベトナム軍大佐の階級章を佩用するクメール軍大佐
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▲左肩にクメール軍少佐の階級章を佩用するベトナム軍少佐(第1歩兵師団チャン・ゴック・フエ少佐)
しかし、この同盟は1975年に両国とも共産主義勢力に敗北した事で消滅します。
一方、同様にベトナム戦争中は同盟関係にあった共産主義勢力、すなわちベトナム労働党とクメールルージュ(カンボジア共産党)も、戦争が終結した事で互いに利用価値を失い、終戦の翌週には同盟を反故にして局地的な戦闘状態に入ります。
そして対立はエスカレートし、1978年のカンボジア・ベトナム戦争に発展。この戦争はベトナム側の勝利に終わりましたが、その後もベトナムが擁立したカンプチア人民共和国(ヘン・サムリン政権)とカンボジア駐留ベトナム人民軍に対し、カンボジア領内に残存する反ベトナム勢力は10年に渡って武力闘争を続ける事となります。
2024年01月20日
ラオスもいける
※2024年1月27日更新
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※2024年7月16日更新
昨年11月の撮影会で仏軍コマンド・ダムサンを始めたと書きましたが、その時着たのがこの、パリを散策した際にミリタリーグッズショップ『ドゥースー(Doursoux)』で買ってきたTAP47/56降下服のレプリカです。
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この服を買った時はフランス製という認識だけで、どのメーカーが作ったのかは分からなかったのですが、後にフランス軍マニアの先輩に聞いたら、そのドゥースーのオリジナル製品っぽいです。
良い買い物しました。
僕はこのTAP47/56を、コマンド・ダムサン用に使う事を第一の目的として買ったのですが、実は使い道はそれだけではありません。
過去記事『いろんなTAP47』で述べたように、TAP47降下服シリーズは第一次インドシナ戦争中の1947年に登場し、さらにフランスがインドシナから撤退した後も、TAP47は空挺部隊の象徴としてベトナム、カンボジア、ラオス軍で引き続き着用されました。
ただし、TAP47シリーズの最終モデルである56型は、その名の通り1956年に改良されたモデルであり、その頃にはベトナム(南べトナム)はすでにフランス連合から脱退していたため、ベトナム軍に56型が支給される事はありませんでした。(支給されたのは53型が最後と思われる)
一方、第一次インドシナ戦争終結後もフランスと友好関係を保っていたラオスやカンボジアは、引き続きフランスから軍事物資を輸入しており、TAP47も新型がフランスから直接供給されました。
なおラオス軍では56型の使用が確認できますが、カンボジア(クメール)軍では私は54型までしか使用例を確認できていません。(クメールでも56型を使っていても何の不思議もありませんが、クメール空挺の写真を見ると、TTA47をメインで着ていたようで、TAP47の着用例自体が少ないです)
以下、ラオス王国軍でTAP47/56が使用されている写真です。
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▲中立派軍所属の空挺部隊 [ビエンチャン 1962年]
また、1960年にラオス政府軍(右派)から分離独立したコンレー大尉率いる中立派軍はこの時期、右派に対抗するためパテート・ラオと同盟を結んだことで、ソ連から軍事支援を受けていたため、ソ連製のPPSh-41短機関銃を装備しています。(その後中立派は中立を維持できず右派と左派に分裂)
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▲空挺部隊の将校
撮影年は不明ですが、後ろにパテート・ラオの兵士が一緒に写っている事から、1973年の停戦より後と思われます。こちらの写真のベレー章が本来の空挺部隊の物。(過去記事『代用ラオス軍ベレー』参照)
空挺ベレー章も、胸の降下徽章もすでに持ってるので、最低限必要な物は揃いました。
暖かくなったら外で着て写真を撮りたいと思います。
2024年01月16日
最近行った場所
日曜日にビクトリーショウに足を運んできました。
お目当てはこちらの展示。
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デスボランティアさんが所蔵する超貴重なコレクションの数々です。鼻血が出ちゃいます。
米国カリフォルニア州ウェストミンスターにはベトナム共和国軍史資料館という私設博物館があり、私は2回訪問しているのですが、迷彩服に限って言えば、こちらの展示の方が凄いです。
いや見に行って良かったぁ~
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また順番は前後しますが、最近、成田空港の隣にある航空科学博物館にも行ってきました。
なんとベルX-1(XS-1)1号機『グラマラス・グレニス』のコックピット部分の実物大レプリカが展示されており、中に入る事ができました。
館内にはゼロ戦のコックピットもあったけど、映画『ライトスタッフ』が好きな僕的にはX-1の方が燃える!
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僕は昔は飛行機と言えば軍用機しか興味ありませんでしたが、度々海外旅行で旅客機に乗るようになってから民間エアラインにも興味が湧いてきて、ここ数年はYoutubeで、エアライン系フライトシムのゆっくり実況をやっているe92m3s65b40agogoさんの動画を毎回見ています。
これで多少はエアラインのコックピットでどのようなやり取りが行われているか知識が得られたので、その上で航空科学博物館の展示を見れたのはとても良かったです。
2024年01月13日
ホアロイのHALO潜入作戦
過去記事『ベトナム空挺の降下作戦1955-1975』にて、ベトナム軍NKTのコマンド部隊は夜間HALO(高高度降下低高度開傘)による潜入作戦を複数回行っていたと述べましたが、それらの多くは他の特殊偵察計画と同様に、ベトナム軍NKTと米軍SOGの合同チームによって実施されていました。
しかし一部ではSOG隊員が参加せず、NKT隊員のみで実施されたHALO作戦も存在していました。今回は、こうしたNKT隊員のみで構成されたHALOチームの一つ、雷虎CCCチーム『ホアロイ(Hỏa Lôi)』のチームリーダーを務めたホアン・ニュー・バー少尉の回想録から、ホアロイが実施したベトナム軍初の夜間HALO潜入作戦の概要をまとめました。
1960年代末まで、NKTの越境コマンド部隊およびSOGとの合同チームは敵性地域への潜入作戦の際に、夜間低高度フリーフォールを多用していた。
これは夜間に、非常に低い高度を飛行するC-47やC-123輸送機からフリーフォール降下するのもので、この作戦に選抜されたNKT隊員にはロンタンのNKT訓練センターで夜間フリーフォール訓練が施された。そして作戦実施が決定されると、機密保持のため隊員はブリーフィングを終えると、出撃の日時まで数日間、基地内の立ち入り禁止区域に隔離された。
この低高度フリーフォールには、低高度からジャンプする事でチームが一か所にまとまって着地できる利点であったが、同時に以下の欠点も存在していた。
・航空機が低空を飛行した事により乱気流が発生し、パラシュートが回転したり、風に流されて着地地点から外れてしまう事がある。
・狭い範囲内で複数人のパラシュートが同時が開傘するとパラシュート同士が絡まる危険性があるため、自動開傘装置が使えない。
・航空機が低空を飛行するため、騒音が大きく、敵に発見されて潜入作戦の意味を成さなくなる。また対空火器による被害を受けやすい。
そこで米軍SOGとベトナム軍NKTは1970年に、当時研究段階にあった新技術HALO(高高度降下低高度開傘)の実戦投入を決定した。
HALOは対地高度18000フィート(約5500m)からフリーフォールし、高度2000フィート(約600m)で開傘するもので、高高度を飛行する事で敵に探知・迎撃される事を防ぐとともに、兵員が降下中に互いに近付く事で低高度フリーフォールと同様にチームの着地地点を一か所に集約する事が可能であった。
このHALO作戦実行のため、ロンタンのNKT訓練センターに加えて、沖縄の米軍基地にもHALO訓練コースが設置され、米軍グリーンベレーの管理・指導の下、NKTおよびSOG隊員に対し訓練が実施された。
なお、このHALO訓練コースにおいて、CCN所属のグエン・ソン准尉が訓練中の事故で死亡した。
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1970年末、ホアン・ニュー・バー少尉以下ゴ・スアン・マン、ラム・サヴェル、グエン・バン・ドーの計4名からなるCCCチーム・ホアロイは、NKT訓練センターでHALO訓練コースを修了した直後、同訓練センター内でブリーフィングに召集され、NKT連絡部司令グエン・バン・ミン大佐からNKT単独でのHALOによるカンボジア領内への潜入作戦の決行を告げられた。
共産軍の防空設備及び指揮所・食料集積場の存在が疑われるこの地域への潜入作戦は過去に数回、CCS所属のチームが夜間低高度フリーフォールによる潜入を実施していたが、低高度で飛行したために共産軍の対空砲火を受け、ヘリコプター2機が撃墜、コマンド隊員も2チームが失われていた。そのため今回は対空砲火を避けるため、ホアロイによるHALO潜入が選択された。
ミン大佐は今回の作戦がNKT隊員のみで実施される事について、「これはアメリカ軍がベトナム軍の能力を試す特別な作戦だ。これまでの経験があれば、我々は課題を克服して任務を完遂できると信じている」とホアロイの隊員達に訴えた。
ホアロイの4名は、通常であればそのまま基地内の隔離区域に収容されるはずであったが、その隔離区域はたまたま別のチームが使用していたため、ホアロイには特別に2日間の休暇が与えられた。未だ前例のない危険な任務であったため、ホアロイの隊員たちにとってこの2日間はただ不安を募らすだけの時間となった。
そして作戦当日、隊員たちは基地内の隔離区域に集合し、出撃の時間を待った。午後10時、隊員たちは背嚢、AK突撃銃、黄色いカーキの戦闘服(CISO戦闘服の一種)、偽装用の共産軍ブッシュハット、パラシュートといった装備を受け取り、出撃の時を迎えた。
出撃を前に、ミン大佐はホアロイの隊員一人一人に体調を尋ね、激励の言葉をかけるとともに、パンとコーラの缶を手渡し、機内で食べるよう伝えた。そしてミン大佐とホアロイの4名は米空軍のMC-130特殊戦機に乗り込み、作戦空域へと飛び立った。
午前0時45分、乗機がカンボジア領内の作戦地域上空に到達し、後部ハッチが開いた。ミン大佐は各自の肩を叩いて励まし、3回目のベルと共に機体後部のランプが赤から青に変わった。これを合図に、ホアロイの4名は高度5500mから暗黒の大地へと飛び降りた。
着地するとバー少尉を含む3名はすぐに合流したが、マンとは合流できなかった。計画ではパラシュートを隠した後、1時間その場に隠れて敵をやり過ごす事になっていたが、サヴェルのパラシュートは高い樹木に引っ掛かってしまったため、3名で協力してパラシュートを切り離さなくてはならなかった。
また午前2時半になってもマンとは合流できず、これ以上同じ場所で待つ事は出来なかったため、バー少尉はマンとの合流を諦め、予定通り東へ移動しながら目標の捜索を開始した。
夜が明け、午前9時ごろ、3名は草原で水牛の大群と出くわした。そして不運にも、異変を感じた水牛が一斉に鳴き始めた事で、付近に居た敵兵を呼び寄せる事となった。これによりホアロイの3名は敵兵に発見され、銃撃戦となる。
敵の歩兵部隊に追跡された3名は、その後4時間に渡って必死の逃走を続けた。草原にはシロアリ塚が無数に立っており、ホアロイはこれに隠れながら断続的に射撃する事で、敵の追撃を押し留めていた。しかしその間、サヴェルは足を捻挫した上、竹の枝が目に刺さる怪我を負った。
バー少尉はこの状況を無線で本部に伝え、救助を求めた。これを受けて、午後3時には陽動の為ベトナム空軍のF-5戦闘機が作戦地域に向けて発進した。
午後5時の時点で、ホアロイの3名は敵に包囲され、絶体絶命の状態にあった。しかし無線で現在地を報告した直後、上空にベトナム空軍のO-2観測機が現れ、FACから救援に来た旨が知らされた。
さらにその後、F-5戦闘機2機と米陸軍のAH-1コブラ4機が飛来し、敵地上部隊を空爆した。その間、米空軍のHH-53救難ヘリがホアロイの3名を縄梯子で抽出し、現地から脱出する事に成功した。
その後3名を乗せたヘリは、CCSの前線基地であるクアンロイ飛行場に到着し、そこで行方不明となっていたマンも無事発見され帰還の途にある事を知らされた。なお戦闘中に負傷したサヴェルはそのまま病院へ搬送されたが、大事には至らなかった。
翌朝、バー少尉はSOGアドバイザーから、昨日の作戦目標であった敵防空施設は、今回の作戦で位置が特定できた事から、B-52による爆撃で破壊に成功したと告げられた。
以上が、NKTが単独で行った最初のHALO潜入作戦の一部始終です。
この作戦では、チームは敵に捕捉され全滅の危機に陥りましたが、結果的には死者を出すことなく全員無事帰還でき、ベトナム軍にとっては大きな前進となりました。
これ以降、ベトナマイゼーションによる米軍撤退・SOG解散により、HALOに限らず、NKT単独での作戦は急激に増加していきます。
2023年12月30日
ベトナム共和国とカトリック(概説)
※2023年12月31日更新
1860年代から1954年まで1世紀近くフランスの統治下にあったベトナムは、アジアの中でも特にキリスト教徒(主にカトリック)の割合が多い国です。
ベトナムとカトリックの関係については、掘ろうと思えばいくらでも深く掘れる分野ではありますが、僕もまだそんなに詳しくは分かってないので、今回は概説だけ書きたいと思います。
第一次インドシナ戦争
第二次大戦における日本の敗北と同時にベトナムの政権を握ったホー・チ・ミンらベトミンは、共産主義・民族主義的イデオロギーからカトリックを敵視し、カトリック信徒に対するテロ攻撃を開始します。
その後すぐにフランスがインドシナの再占領に成功し、カトリックはフランスによって保護されますが、ベトミンによるテロは続き、フランス連合側ではベトナム人カトリック信徒による民兵組織『キリスト防衛機動隊 (UMDC)』等が組織され、カトリック勢力はフランスと団結してベトミンと対峙しました。(過去記事『第一次インドシナ戦争期のベトナム陸軍 その3:その他の戦闘部隊』参照)
しかし1954年、ジュネーヴ協定によってフランスが撤退し、北ベトナムにホー・チ・ミン政権(ベトナム民主共和国)が成立すると、北ベトナム領に住むカトリック信徒は生命の危機に晒されます。そしてホー・チ・ミン政権による弾圧から逃れるため、30万人以上のベトナム国民(内8割がカトリック信徒とされる)が北ベトナムを脱出して南ベトナム(ベトナム国)に退避しました。
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▲米仏軍による輸送作戦Operation Passage to Freedomにより北ベトナム領を脱出するカトリック難民[1954年]
第一共和国期
一方、1955年に無血クーデターによって南ベトナム(ベトナム国改めベトナム共和国)の実権を握ったゴ・ディン・ジェム総統は熱心なカトリック信徒であり、カトリックはむしろ政府によって優遇される事になります。
1964年の時点で、ベトナム共和国の人口1450万人の内、カトリック信徒の割合は約10%に過ぎませんでしたが、ジェム政権(第一共和国期)下では政府・軍高官の大半、そして全国の省長官の2/3をカトリック信徒が占めるなど、ベトナム共和国の政治権力はカトリック勢力が握る事となりました。
また歴史的にベトナム人は中国人を快く思っていませんでしたが、それでもジェム総統は中国共産党に弾圧された中国人カトリック難民のベトナム共和国への移住を受け入れ、土地を与えたばかりか、中国人難民が国内で武装・民兵組織化する事も許可しました。(過去記事『グエン・ラック・ホア神父』参照)
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▲第一共和国期を率いたゴ家の兄弟3名。左からゴ・ディン・ニュー(カンラオ党=事実上の秘密警察指導者)、ゴ・ディン・トゥック(カトリック教会フエ大司教)、ゴ・ディン・ジェム(ベトナム共和国総統)
しかし、こうした極端なカトリック優遇政策が国内に深刻な宗教対立をもたらします。
ベトコンとの内戦を抱えながら、内政でも混迷が続いた事で、ついにはジェムのスポンサーだった米国CIAもジェムを見限る結果となりました。そして新たにCIAの支援を取り付けたズオン・バン・ミン将軍ら軍部の反ジェム派は1963年11月にクーデターで政権を奪取し、ジェム総統と弟のニューは革命軍によって暗殺され、ジェム政権関係者も軒並み粛清されます。
しかしそれでも、カトリック信徒には仏領時代から続く良家・エリート層が多く、ジェム政権を倒した軍内部にもカトリック信徒が多かったため、カトリックそのものが排斥される事はなく、以後カトリック勢力とベトナム共和国政府は共存していくこととなります。
ベトナム共和国軍の従軍司祭
上記のようにベトナム共和国の人口の10%はカトリック信徒だったため、当然ベトナム共和国軍に所属する将兵の中にもカトリック信徒が一定数存在しており、特に軍の高官やエリート部隊ではカトリックの割合が非常に高かったそうです。なのでベトナム共和国軍には欧米の軍隊のようにカトリックの従軍司祭およびカトリック司祭局(政治戦総局所属)が存在しており、これは他のアジア諸国には無いベトナム共和国軍の特徴と言えます。
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▲前線で礼拝するベトナム共和国軍のカトリック信徒[1970年カンボジア領内]
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▲左胸に十字架の職種章を佩用する従軍司祭(陸軍大尉)。キャロット(略帽)にも十字架を付けていますが、陸軍ではキャロットは用いられないので、カトリック司祭局独自の軍装かも知れません。
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▲キャソック(司祭平服)を着た従軍司祭。恐らく上の写真と同一人物。ベレー章は他に使用例のないデザインなので、これもカトリック司祭局独自の物かも知れません。
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▲陸軍第1歩兵師団所属の従軍司祭/陸軍大尉(右の人物)。[1971年ラオス領内]
前線部隊に同行する従軍司祭は、カトリック司祭局ではなく師団パッチを佩用していた模様。
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▲政治戦総局カトリック司祭局の部隊章
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▲政治戦総局カトリック司祭局局長ポール・レ・チュン・ティン神父(陸軍大佐)
ティン神父は元ブンタウ聖ヨセフ神学校の校長であり、ベトナム共和国軍カトリック司祭局の最後の局長として終戦を迎える。終戦後、ティン神父は共産政権に逮捕され、再教育キャンプに10年間投獄された後、1985年にアメリカに移住。1994年にその地で死去する。
なお、政治戦総局にはプロテスタント司祭局や仏教司祭局も存在していましたが、ベトナムにおけるプロテスタントの信徒数は非常に少なく、しかもその信徒の大半は中部高原に住むデガ(少数民族)なので、プロテスタント司祭局の活動に関する情報はほとんど見た事がありません。仏教司祭局に所属する従軍僧については、現在資料集め中ですので、ある程度揃ったら記事にしたいと思います。
カトリック民兵(人民自衛団?)
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こちらはカトリック民兵とされる組織です。人民自衛団は本来、都市村落毎に編成される政府指揮下の自警団ですが、これはそのカトリック教区版と言ったところでしょうか。映像を見つけただけで、詳しい事はまだ分かりません。
ボーイスカウト
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ベトナム共和国時代のボーイスカウト/ガールスカウトは、公にはカトリック教会所属の組織ではありませんでしたが、教会・修道院との繋がりが深く、事実上のカトリック関連組織と言って良いと思います。(ただし非カトリックでも入団できる)
戦時中、ボーイスカウトは軍の補助組織として後方支援任務の一部を担いましたが、公には民間の慈善団体であり、またカトリック教会直営という訳でもなかったため、戦後の共産主義政権下でも(共産党への忠誠を第一義とする条件で)解体をまのがれ、今日でも存続しています。
2023年12月21日
ベトナム国産リザード
※2023年12月23日更新
以前、『おフランスのおべべ』で、下の2枚のリザード迷彩服の写真では、上着はフランス軍と同型のTAP47(左)およびTTA47(右)である一方、パンツはベトナム国産のベイカー型(米軍ユーティリティユニフォームの派生)が着用されていると書きました。
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▲左:1963~1964年頃サイゴン、右:1963年11月サイゴン
さらに先日、上着も国産が有ったと断定できる写真が見つかりました。
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▲1968年サイゴン
リザードを着ている兵士が被っているのは鹵獲した共産軍のガスマスクだそうです。
という訳で、1960年代にはフランス製に加えて、ベトナム国産のリザード迷彩服が使われていたことがはっきりしました。
とは言え、確実にベトナム国産だと分かる(ベトナム国産迷彩服の裁断をしている)服の着用例は上に挙げた3例ほどしか確認できておらず、極めてレアなので、おそらく官給品ではなく個人購入品だったと考えられます。
またフランス軍型(TAP47およびTTA47)のリザード迷彩服は1950年代中盤から1960年代中盤にかけて大量に使用例がありますが、写真からではそれらの服がフランス製なのか、あるいは同じ裁断のままベトナムで国産化された物なのかは判断がつきません。
なので、もしかしたら、裁断はフランス軍型だけど実はベトナム製という物もあったかも知れません。
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▲TTA47/52軽量型のリザード迷彩服を着ているNKT連絡部CCN司令ホー・チャウ・トゥアン少佐(1960年代末)
リザード系迷彩服は色落ちしやすいのにもかかわらず、フランス撤退から約15年経ってもこれだけ綺麗に色が残っているという事は、この服は貴重なデッドストックであったか、もしくはベトナム製コピーのどちらかと言えそうです。
2023年12月15日
軍警の制服
ベトナム共和国軍の軍警(いわゆる憲兵)の制服についてご紹介します。
関連記事:QC/軍警隊
I. 制帽
軍の司法機関としての役割を持つ軍警隊では、他の職種と異なり、黒色の制帽が制定されていました。なお帽章や帽子の形状は陸軍と同一です。
制帽は礼装用の帽子ですが、同時に軍警ではヘルメットライナーも礼装時に用いられました。使い分けとしては、純粋な礼装が制帽で、礼装しつつ警備活動する場合はヘルメットライナーと言った感じでしょうか。
なお軍警ではベレーは着用されません。
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II.ヘルメット
軍警隊ではアメリカ軍のMPに倣い、QCのマーキングが施されたヘルメットが常時着用されました。
①ヘルメットおよびマーキングの種類
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1. 黒いヘルメットライナーに白文字QC、紅白線
軍警を象徴する最も一般的なマーキング。礼装の際もこのライナーが着用される。
2. OD色ヘルメットシェルに白文字QCのみ塗装
軍警学校の訓練生で多用される。また普通の軍警隊や捕虜収容所の一部でも使用例あり。
3. ヘルメットカバーに黒文字QC
第202軍警中隊(海兵隊付き)や第204軍警中隊(空挺部隊付き)など、迷彩服を着用する軍警中隊が前線で活動する際に見られる。
4. ヘルメットカバーに白文字QC
捕虜収容所の一部で使用例あり。
②ライナー右側面
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1. 叉銃とヘルメット
軍警隊で広く使われる最も基本的なマーク
2. 翼と星
空軍付きの各軍警隊で使われるマーク
3. 交叉した錨
海軍付きの軍警隊(第201軍警中隊)で使われるマーク
4. 軍警隊部隊章マーク
一例のみ使用例を確認。詳細不明。
5. 海兵隊マーク
海兵隊付きの軍警隊(第202軍警中隊)で使われるマーク
6. 空白
使用例は比較的多いが詳細不明。
③ライナー左側面
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1. ローマ数字
軍警大隊の番号。
2. アラビア数字
(独立)軍警中隊および分遣隊の番号
3. 空白
稀に使用例があるが詳細不明。
被服に軍警専用の物は無く、基本的には陸軍と同一です。
①カーキ作戦服
陸軍・空軍の軍警隊が勤務時に着用する最も一般的な制服
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▲左:陸軍、右:空軍
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▲ベトナム戦争末期(1973-1975年頃)には、軍警隊でも一般部隊と同様に4ポケット上衣/カーゴポケット付き下衣が着用されるようになる。
②迷彩服(各種)
迷彩服が支給されるエリート部隊を担当する軍警隊では、その部隊に合わせた迷彩服が着用される。
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▲第204軍警中隊(空挺部隊付き):ホアズン迷彩
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▲第202軍警中隊(海兵隊付き):ザーコップ迷彩
③海軍勤務服(ブルーグレー)
海軍を担当する第201軍警中隊では、海軍の勤務服が通常勤務・礼装の両方で着用される。
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④勤務服(チノ)
儀礼用の礼装。
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▲左:陸軍、右:空軍
⑤儀仗制服(白)
儀仗専用の礼装。裁断は勤務服と同じ。
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その他
金バックルのピストルベルトや革製装具、警棒等は軍警ならではのアイテムですが、資料がまだまだ不足しているので、今後の課題としたいと思います。
2023年12月09日
続・国家警察の赤ベレー
過去記事『不可思議な写真』の中で、マウタン1968(テト攻勢)時の写真には、ベトナム国家警察の迷彩服であるホアマウダット(クラウド)を着ているにも関わらず、ベレーは赤系色(陸軍空挺もしくはレンジャー)を被っている将兵の例が複数見られると書きました。
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そして先日、その中の一人が特定できました。
下の写真の中央の人物は当時の国家警察総局総監グエン・ゴック・ロアン空軍少将で、その右側の赤ベレーの人物がグエン・トゥア・ズー(Nguyễn Thừa Dzu)陸軍中佐(当時少佐)です。
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ズー中佐は元々、ダナンに駐屯する陸軍第11レンジャー大隊の大隊長でした。
この第11レンジャー大隊は1966年3月に発生した中央政府(グエン・バン・テュー政権)への大規模な反政府運動の際、テュー政権に反対する立場を取り、政府の統制から離反して反政府勢力の一部となってしまいます。このまま行けば再びの軍事クーデターに繋がりかねない事態を前に、テュー政権で国家警察総監を務めていたロアン少将(当時大佐)はダナンに赴き、直接ズー中佐の説得に当たります。その結果、ズー中佐は説得を受け入れ、第11レンジャー大隊は政府の指揮下に復帰。反政府運動は鎮静化され、テュー政権は崩壊をまのがれます。以後、ベトナムでは軍事クーデターにつながるような大きな政変は起こりませんでした。
その縁からか、ズー中佐は1966年中に、ロアン少将直属の第9警察管区司令に就任します。そのためマウタン1968(テト攻勢)では、サイゴン市街戦で指揮を執るロアン少将の傍らにズー中佐の姿が見られます。
このように、ズー中佐は国家警察に出向しているレンジャー将校なので、服は国家警察の迷彩服*1であるホアマウダットを着ていますが、同時にベレーだけは自身が所属するレンジャーの物を着用していた*2ようです。
※1:ホアマウダットは国家警察全体の迷彩服なので、主に使われるのは戦闘部隊である野戦警察隊だが、その他の部署でも必要に応じて着用される。
※2:通常、軍人が国家警察に出向した場合でも、ベレーは国家警察のもの(黒色)が着用される。ズー中佐のように原隊のベレーを被り続けるのは、あくまで自身の我がままを通した一部の将校のみ。
2023年11月25日
11月の撮影会その2
※2023年12月3日更新
その1に引き続き11月の撮影会の様子です。
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その1に引き続き11月の撮影会の様子です。
全体テーマ①:ベトナム陸軍第1歩兵師団"ラムソン719作戦"
(1971年3月ラオス王国カムムアン県)
そろそろ寒くなってきたので、南国のベトナム軍にとって数少ない防寒着を着るチャンスの一つである1971年の南ラオス戦役(ラムソン719作戦)をテーマに集まりました。
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▲同じくラムソン719作戦時の空挺師団の装備を身に着けた友人
ラムソン719作戦で戦場となった南ラオス山岳地帯(ルアン山脈)は標高が高いため、気温は10℃ほどと、熱帯生まれのベトナム人には相当寒かったようで、このように防寒対策している写真が多数残っています。
全体テーマ②:ベトナム陸軍第5歩兵師団(1968~1972年頃)
11月は寒い→防寒着を着ざるを得ないと思ってラムソン719作戦をテーマに集まった訳ですが、いざ当日集まってみると、この日に限ってポカポカ陽気で、むしろフィールドジャケットを着ていると汗をかくくらい気温が高くなっちゃいました。
なので一通りラオス設定の写真を撮った後は、みんなフィールドジャケットを脱いで、第5歩兵師団(地域年代は特に定めず)に衣替え。
その他:ベトナム陸軍第18歩兵師団(1973~1975年頃)
僕は個人で、ベトナム戦争末期(1973~1975年頃)に多用された4ポケット上衣+カーゴポケット付き下衣にお着換え。
撮影会の後って毎回そうなのですが、荷物を片付けるのが面倒くさい・・・。
帰宅してその日のうちに片付けるべきなのですが、荷物を車から降ろして2階の自室まで持っていく時点で、かなりかったるい。
と気乗りしないまま撮影から1週間が経ち、まだ荷物は車の中に置いたままです。いい加減、今日こそ片付けよう。ね。
2023年11月22日
11月の撮影会その1
日曜日に撮影会を行いました。寒くなってきたので、これが今年最後の撮影会となります。
個人撮影:フランス陸軍コマンド・ダムサン (1950年代末アルジェリア)
僕にとって初めてのアルジェリア戦争装備です。僕はフランス軍のマニアではないのですが、インドシナ人兵士が辿ったベトナム戦争とは別のもう一つの歴史という意味で、この部隊はいつかコスプレしてみたいと思っていました。
極東コマンド(Commando d'Extême-Orient)、通称「コマンド・ダムサン」は第一次インドシナ戦争終結後、フランス人と共に故郷インドシナを去った一部のフランス連合軍インドシナ先住民(主に少数民族)将兵が統合され、1956年にアルジェリアで編成されたフランス軍空挺コマンド部隊です。(過去記事『フランス連合軍のインドシナ少数民族部隊』参照)
コマンド・ダムサンは最初、植民地軍内に組織されましたが、後に外人部隊の隷下に移動しています。しかしコマンド・ダムサンのベレーは、植民地空挺連隊(赤)とも外人空挺連隊(緑)とも違い、黒ベレーに空挺ベレー章という独特のスタイルでした。なぜダムサンだけ色が違うのか僕はまだよく分かってないので、これから調べていこうと思います。
【装備まとめ】
被服:TAP47/56降下服(フランス製レプリカ)
帽子:ビジャール帽/TAP迷彩キャップ(フランス製レプリカ)
ブーツ:モデル52脚絆付き行軍靴(実物)
個人装備:TAP50/53系装備(実物)
背嚢:TTA51背嚢(実物)
小火器:MAT-49短機関銃(個人製作エアソフト)
Posted by 森泉大河 at
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2023年11月15日
野戦警察撮影会
実はフランスに行く前の週にプチ撮影会を行ったのですが、まだ写真をアップしていなかったので記事にします。
今回のテーマは1960年代末~70年代前半のベトナム国家警察第222野戦警察団です。
まずは野戦風景。第222野戦警察団は元は陸軍の治安部隊だっただけあり、将校は軍のエリート部隊からの出向者が占めており、その他の隊員(警察官)も陸軍と同等の戦闘訓練を受けた、実質的な軽歩兵部隊でした。
次はデモ警備/ライオット装備。野戦警察隊は日本の警察に例えると警備部機動隊のようなもので、上記のように軍隊並みの戦闘能力は有しているものの、基本的には警察の一部であるため、デモ警備は野戦警察隊の主要な任務の一つでした。
・警杖:家にあった雪かきスコップの柄を外したもの(笑)