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2025年01月16日

東洋漫遊記⑫サイゴン(帰路)

日本に帰る途中、この旅の始まりの地サイゴンに戻ってきました。
ただ帰るだけなら、他にもハノイやバンコクで乗り換えるルートもあったのですが、初日にトニー君と会った時に、サイゴンにあるホーチミン作戦博物館の事が話題に上がり、僕はまだ行ったことが無かったので、帰りに寄ろうと思っていたのです。


ここはベトナム戦争末期の1975年4月に共産軍が行ったサイゴン攻略戦「ホーチミン作戦(ホーチミン戦役)」を讃え、共産軍の言うところの「サイゴン解放」を記念する資料館です。
僕はサイゴンに来るのは今回で4回目なのですが、小さい博物館なので、今まで完全にノーマークでした。
しかしトニー君の情報では、なにげに現政府の敵であるはずのベトナム共和国軍の展示が充実しているとの事なので、こりゃ行かねばと思った次第です。

この日、サイゴンに到着したのが午後10時頃だったので、まずは激安ホステル(一泊500円)にチェックインして一泊。
翌朝、バイクタクシーを呼んで博物館に移動しました。

まず博物館に着くと、屋外に戦闘機や車両、火砲が展示してあります。まぁ、この辺は見慣れたものです。
中に入ると、1階は第二次大戦から現在までのベトナム人民軍に関する展示です。
そして2階に上がると、展示室は二つあり、一つはサイゴンを攻める共産軍の部屋。
そしてもう一つは、部屋丸ごとベトナム共和国軍についての展示でした。
これが博物館らしく、かなり貴重な品々のオンパレードです。



うおぉぉ!こりゃええ。
確かにトニー君の言う通り、共和国軍に関しては他のどの博物館よりも充実した展示です。
特に紙系の資料は内容をちゃんと読みたいので写真を撮りまくりました。
いやぁ、来て良かった。


この後は、観光する元気がなかったのでホステルに戻り、夜までのんびり過ごしました。
(行く先々で気温が違い過ぎて体調がおかしくなっていました。シエンクワンは5℃だったのに、サイゴンは30℃)

▲ホステルで飼われている看板猫


旅の途中から東南アジア料理に飽きていたので、この日の夕食は日本食を求めて、日本人が経営する油そば屋さんに足を運びました。





そして午後11時、タンソンニュット空港から成田行の飛行機に乗り、今回の旅が終了しました。
旅を終えた気分を歌に例えるとこちら。





旅した期間はのべ10日。元々は1か月くらい放浪しようと思っていたのですが、思いのほか目的が早く達成できたのに加え、長距離移動と気温の変化の連続で体調がおかしくなってきたので、無理せず帰国しました。

旅を振り返ってみると、なかなか密度の濃いものになったと思います。
・日本からの往復で使ったベトジェットエアーは座席が薄っぺらくてケツが超痛い
・陸路でラオスに入国したら現金が無くてご飯食べれなかった
・ワッタイ空港でSIMカード買ったら通信速度が遅すぎてGoogle検索すらできない不良品だった
・夜行バスはチケットが二重発券されてる、冷房が寒すぎて寝れない
などトラブルもありましたが、まぁこの程度で済んでよかったと思います。


翌朝、成田に着き、自宅に戻ったあたりから、思った通り本格的に体調が悪くなりました。
いつもは風邪くらい2・3日で治るのですが、今回は10日以上伏して過ごす事に。不本意ながら寝正月となりました。


  


2025年01月12日

東洋漫遊記⑩シエンクワン

※2025年1月13日更新


今回、ロンチェン訪問の起点としたのがシエンクワン(ポーンサワン)という町です。
ここのは元々シエンクワン県シエンクワン郡という名前だったのですが、ラオス戦争で壊滅的な被害を受けたため、戦後街はほぼ一から再建され、その際新たに「ポーンサワン」という名前が付けられたそうです。
しかし現地に行ってみると、バスの行先や公共の施設名などには、まだまだ「シエンクワン」という名前が使われており、むしろポーンサワンの使用例の方が少なく感じるくらいでした

元々僕の目的地はロンチェンただ一か所だったので、シエンクワンを観光する予定は無かったのですが、ロンチェン訪問が順調に進んだおかげで時間がだいぶ余ったので、ホテルから歩いて行ける範囲でシエンクワンの街を散策しました。


①MAGビジターセンター

MAG(地雷諮問グループ)はイギリスに本部を置き、世界中に残された地雷・不発弾の捜索と処理を行う国際NGOです。
ラオス戦争時代、アメリカはラオスに地上部隊を派遣しなかった一方、航空機による共産軍への空爆は第二次大戦を上回る猛烈な規模で実施されました。特にここシエンクワン県は、ジャール平原をめぐって十年以上一進一退の攻防が繰り返された場所なので、空爆が行われた回数も膨大になります。


▲1965~1973年にアメリカ空軍がラオス領内で空爆を行った地点

これについて反米思想を持つ人々は、あたかもアメリカがラオス国民を狙って無差別爆撃したかのように宣伝しますが、それは大嘘です。
当時のラオスはアメリカの同盟国であり、アメリカはラオスを防衛するため、ラオスを侵略する北ベトナム軍を対象に爆撃を行ったまでです。仮に日本が他国に侵略されれば、国内に侵入した敵を迎撃するために自衛隊や米軍は日本国内を爆撃せざるを得ないのと同じことです。
とは言え、当時も今も、民間人や民間施設を巻き込まない「きれいな爆撃」など不可能であり、ラオス国民が空爆によって大きな被害に遭ったのもまた事実です。そしてその戦禍は、終戦後も不発弾という形でラオス国民を苦しめてきました。
特にクラスター爆弾は、1個の弾体から約300個の子弾が放出されますが、MAGの資料ではその内20~30%が不発を起こし地上に残ってしまいます。またその子弾は小型で発見が難しいため、人が接触して爆発する事故が後を絶ちません。一説によると、ラオス国内に残る不発クラスター子弾の数は8000万個におよぶと推定されています。
ここでクラスター爆弾という兵器の是非について語る気はありませんが、危険を顧みずラオス国民の為に不発弾処理に当たるMAGの活動には頭が下がるばかりです。


②シエンクワン県博物館


古代のジャール平原石壺遺跡から、この地に住む多様な民族、仏領インドシナ時代、そしてラオス戦争まで、シエンクワン県の歴史にまつわる品々を展示している博物館です。多分この分野に興味が無いと何も面白くないかも知れませんが、僕は十分楽しめました。
なお節電の為、僕が入るまでは中の電気が消えており、僕が展示室を移動するたびに係員のおばちゃんが電気をON/OFFしにやってきます。なんだか恥ずかしいなぁと思いながら見て周りました。


ここには第二次大戦末期の日本軍によるシエンクワン占領についても展示があました。


これによると、フランス軍*コマンド部隊は1945年1月にシエンクワンに空挺降下し、現地でモン族を中心とする抗日組織『メオ・マキ』を組織して、現地の兵力や資金、弾薬を日本軍が到達する前に隠匿します。
(※この「フランス軍」が在インドシナ仏軍なのか、連合軍の一員としてインド・ビルマに進軍した自由フランス軍なのかは記述がありませんでした)
その後日本軍がシエンクワンに進駐すると、まだ十代だったヴァン・パオ(後の王党派モン族指導者・ラオス王国軍第2軍管区司令)は日本軍に雇われ通訳を務めつつ、裏ではメオ・マキの一員としてフランス軍の為に日本軍の情報を集めるスパイ活動をしていたそうです。
あのヴァン・パオ将軍が日本軍と関係が有ったという話は初めて知ったので驚きました。


モン族服ショッピングモール


適当に通りを歩いていて、たまたま立ち寄ったショッピングモールがとても良かったです。Google Mapによると「KhwHmoob」という名前らしいですが、何て読むのか分かりません。
ここは1階は普通の生活雑貨や衣料品が売られていますが、2階に上がると、なんという事でしょう。モン族の民族衣装専門店が十数店も軒を連ねるモン族天国でした。



ウヒョヒョ。たまんねぇぜ。
実はシエンクワンもロンチェンも住民の大半はモン族なのですが、彼らはもう民族衣装なんて着ていなくて、日本人と同様にTシャツやらジーパンを着て生活しているので、せっかくモン族の街に来たのにモン族感が全然なかったのです。京都に来たのに和服の日本人がいなくてガッカリする外国人観光客の気分でした。
そんな中、思いがけずこのショッピングモールに出会ってしまい、大興奮で建物内を何回も往復しました。

ここで売っている服は女性用がメインですが、もちろん男性用もあります。
ただ僕が着る場合、リエナクトが主目的なので、今売っている服は使いにくいのです。
と言うのも、現代のモン族は普段民族衣装を着ないので、ここで売っている服は装飾が沢山付いた、結婚式など特別な時に着る正装・晴れ着だけなんです。
一方、僕がリエナクトで必要なのは、当時の一般的な普段着・野良着。残念ながらそういう物はもうどこにも売っていません。

▲70年代以前のモン族の普段着(左)と、現在売っているアパレル製晴れ着(右)

なので僕は、当時風の服を自作して着ています。



そんな中、コスプレに使えそうなアイテムを発見したので購入しました。
英語でスピリット・ロック(魂の鍵)と呼ばれるモン族の代表的なネックレスの一つです。
今売られている物は晴れ着用に華美な装飾が付いたものばかりですが、モール内を探し回ったら、このように昔ながらのシンプルなデザインの物を見つけることが出来ました。

▲右は1950年代前半のフランス軍GCMA(混成空挺コマンド群)所属のモン族兵


いや~、ビエンチャンよりも、この田舎町の方が何倍も楽しめました。
道中はなかなか大変でしたが、来て良かったです。
  


2025年01月10日

東洋漫遊記⑨ロンチェン

※2025年2月7日更新

ついにやってきました、ロンチェン。
ラオス戦争を通じてラオス王国軍・米国CIAの最重要拠点かつモン族最大の都市だった場所です。
ちなみにこの町のローマ字表記はLong Tiengと書かれる事が多いですが、現地での発音は完全に「ロンチェン」でした。

ラオス戦争とロンチェンについては過去記事参照

ラオス戦争は1975年に終結しましたが、戦後もこの一帯ではモン族による共産主義政権への抵抗活動が続いたので、ロンチェンは2015年までラオス人民軍が管理する閉鎖都市でした。
なので現地に着くまではどんな雰囲気なのか想像がつかなかったのですが、いざ到着してみると、道中の未開のジャングルっぷりが嘘のように、割と綺麗に整った地方の村落という感じでした。
道はちゃんと舗装されており、住居や商店もたくさんあり、レストランやホテルまであります。いささか拍子抜け。
ま、元々戦時中から、この辺りで一番栄えていた町なので、当然と言えば当然ですが。

【余談】

Wikipediaにはロンチェンは「当時のラオスで2番目に大きな都市であった」と書いてあるけど、それはさすがに嘘でしょう。今も昔も、平野部にあるサワンナケートやパクセーの方が何倍も人口が多いです。CEICによると、1976年当時のサワンナケートの人口は約43万人。これは都市ではなく県全体の人口ですが、おそらくその大半はサワンナケート市街に住んでいたはずです。

・またロンチェンはしばしば「地球上で最も秘密の場所」という謳い文句で紹介されますが、これも欧米人の記者が読者の耳目を集めるために誇張した表現です。たしかに戦時中は地図に街の存在は載っていませんでしたが、戦時中の軍事施設が民間の地図に載っていないのは当たり前です。それにここはれっきとしたラオス王国軍第2軍管区本部の所在地であり、共産軍もそれを分かった上で十年以上ももロンチェンに対し攻撃を繰り返していました。ラオス戦争に関する情報には何でもかんでも「秘密」という言葉が付いてまわりますが、これはミステリアスな雰囲気を出して注目を集め、本や記事を売るための商業活動に過ぎないと感じています。


さて、ロンチェンに到着したのがちょうどお昼時だったので、さっそくレストランで食事をしました。
店内には観光客向けに、ラオス戦争時代のロンチェンの写真が堂々と飾ってあります。

▲写真の下の文字は、「CIAが運営し、ヴァン・パオ将軍が率い、モン族が防衛したアメリカ軍事秘密基地」の意

CIAが作った航空基地「リマサイト20A」の滑走路を眺めながら、鶏軟骨の唐揚げを食べる。
手前の道は戦後作られた幹線道路で、その奥にある砂利道が元滑走路です。

▲当時のLS20A (LS98やLS30という別称もあります)
滑走路の奥(北側)にある切り立った尾根はアメリカ人から「スカイライン」と呼ばれ、ロンチェンの最終防衛ラインとしてモン族やタイ軍の防御陣地が置かれており、ロンチェン攻略を目指す北ベトナム軍との激戦が幾度も行われました。

ロンチェン駐屯のモン族SGU将校たち(1967年)


お昼ご飯を食べ終えると、周辺を散策開始。
さっそく滑走路に行くと、バッグに隠し持っていたベレーを取り出し、スカイラインを背景にこっそりSGUコスプレ自撮りを敢行。


これまでのミリタリー趣味人生の中で最高の写真です。僕はこの日のために生きてきました。
撮影後さっそく、ケン・コンボイ先生に「あんたの本のせいで、俺はこんな事になってしまったんだ」と、この写真を送りつけてやりました。

なお、ラオスは現役バリバリの共産主義国家であり、こういう事しているのが当局に見つかると非常にまずい事になります。
当日、警察官は見ませんでしたが、小脇にAKSを抱えた若い民兵がスクーターでパトロールしていました。
なので民兵はもちろん、地元住民にも見られないよう人けの無くなったタイミングを見計らい、大急ぎで撮影を済ませました。
やった本人が言うのも何ですが・・・、まともな人生送りたい人は真似しない方が良いと思います。(マジで逮捕されるので)


またロンチェンには、滑走路以外にも遺構が残っています。
それが何を隠そう、1966年に建設されたヴァン・パオ将軍個人の邸宅です。


▲当時のヴァン・パオ邸

周囲の建物が何一つ残っていない中、真っ先に破壊されそうなヴァン・パオ邸だけが残っているのは、幸運と言うか不思議です。
現在この建物は一般公開されていないようですが、門が開いていた上、誰も居なかったので、勝手に敷地に入って写真撮っちゃいました。


あとは、軍事施設ではないですが、戦時中の1966年に建立されて以来、ロンチェンの人々の信仰の中心に有ったお寺ワット・ロンチェンをお参り。


▲当時のワット・ロンチェンが写っている写真。滑走路の東側の丘の上にあります。


こうして長年待ち望んでいたロンチェン訪問が終了。
帰り道は運転手のミグ(ミク?)さんの計らいで、モン族歌手がロンチェンについて唄う曲をカーナビのYoutubeで流しながら、今朝来た道を戻ります。


最高の気分です。この一日で、僕の人生の夢がまた一つ叶いました。
今回は何日かかるか分からない行き当たりばったりの旅のため、帰国するタイムリミットを気にしたくなかったので会社を辞めちゃったけど、全然後悔有りません。

▲朝から長時間悪路を運転してくれたミグさん。ロンチェンからの帰り道、僕にミカンを買ってくれました。何から何まで感謝です!
  


2025年01月06日

東洋漫遊記⑥ビエンチャン

さて、やってきましたビエンチャン。
巷では「世界一何もない首都」と言われており、僕も単にシエンクワンに行くための中継地点として立ち寄っただけなのですが、せっかく来たので何箇所か名所を周ってきました。

①アヌサーワリー(パトゥーサイ)

ビエンチャンと言ったら、やはりここ。
アヌサーワリーラオス王国時代の1968年に完成した紀念碑で、第二次大戦から戦後の対仏独立闘争で散ったラオス人兵士を顕彰し、ラオス独立を記念する施設です。
当時ラオス王国はアメリカから多額の経済援助を受けていたのですが、何か記念碑を建設したかったラオス政府は、アメリカから空港建設の為として送られた資金とセメントを、黙ってこのアヌサーワリー建設に使ってしまったそうです(笑)



▲かつてラオス王国軍のパレードが行われたアヌサーワリー前のラーンサーン通り

1975年、共産軍が戦争に勝利すると、パテート・ラーオ(ラオス人民革命党)政権はアヌサーワリーを『パトゥーサイ(勝利の門)』へと改称、革命戦勝記念碑へと再制定して現在に至ります。
とは言え、パテート・ラーオは戦時中ほとんど最初から最後まで北ベトナムにおんぶにだっこで、北ベトナム軍に代わりに戦ってもらい、結果的に勝った側に居ただけのようなものです。
その結果ラオスは実質的にベトナムの保護国となり、ラオス人民革命党はベトナム共産党の代理人としてラオスを統治しているに過ぎません。
パテート・ラーオの言う「勝利」とは、一体誰にとっての勝利なのか。多分勝利の恩恵にあずかったのは、運転手付きのメルセデスに乗っている党のお偉いさん(ハノイの飼い犬)だけです。


②タート・ルアン

後は普通に観光です。
タート・ルアンはラオスを代表するお寺で、その仏塔は国章にも描かれています。


仏塔は立派ですが、思ったよりも敷地が狭いので、すぐ見終わりました。
仏塔のすぐ隣にある寺院の方が、いろいろ見る物があります。



③タート・ダム

訳あってパスポートのコピーを用意する必要があり、コピー屋に行ったついでに、近くにある古い仏塔に寄ってきました。


歴史がある感は伝わってくるのですが、観光地ではなく、住宅街の真ん中にある小さな公園状態なので、一瞬で見終わります。
とは言え、近所の住人が集まってお供え物をしている姿は、ここが遺構や遺跡ではなく現役の宗教施設である事を意味しており、ラオス人のリアルな信仰が目の前で見れたのは良かったです。


愚痴

ミリタリーマニアとしてはラオス人民軍歴史博物館に行ってみたかったのですが、現地に着くとなぜか門が閉まってます。
ネットで調べると昼前後は休み時間らしいので、午前と午後2回も足を運びましたが、やっぱり開いていません。
何の案内もないし、誰も居ない。
なお、その近くにある人民公安博物館も、曜日的に休館日でした。
ふざけんなー!クソッ!




  


2025年01月05日

東洋漫遊記⑤サワンナケートとワッタイとタオ・マー

サワンナケートはかつてラオス王国軍第3軍管区本部が置かれ、日本人ラオス軍将校サワット・ムンクルン(山根良人)大佐が生活した地ではありますが・・・
史跡的には大して見る物も無さそうなので、一泊したらさっさとビエンチャンに移動しました。


▲サワンナケート空港からラオ・エアラインのATR72に乗って出発。

サワンナケート市街。奥に見えるのがメコン川。川の向こうはタイ王国領

▲1時間ほどでワッタイ空港(ビエンチャン)に到着


と、ここで蘊蓄開始。
サワンナケート空港はかつてのラオス王国空軍サワンナケート空軍基地(第3/第303空軍基地)であり、1961~1966年まで空軍本部が置かれていました。

▲かつてのサワンナケート空軍基地正門

この時期空軍本部を率いていたのが、ラオス空軍初代司令官タオ・マー准将です。
タオ・マーは短気で苛烈な性格として知られる一方、不正や腐敗を憎む清廉な人物でもあったため、汚職に手を染めるビエンチャンの王国軍将官たちと長年対立関係にありました。
当初ビエンチャンのワッタイ基地に置かれていた空軍本部がサワンナケートに移転したのも、タオ・マーを首都から遠ざけて権勢を削ぐための政争の結果だったと言われています。
しかしビエンチャンから遠く離れた事がかえって幸いし、タオ・マーラオス南部の青年将校を糾合し、独自の勢力を築く事に成功します。

▲米海軍空母エンタープライズを視察するタオ・マー准将(中央) 1965年

参謀本部とタオ・マーの対立が深まる中、参謀本部1966年10月、タオ・マーをビエンチャンの統合作戦センター司令に任命すると発表します。これは名目上は昇進人事でしたが、実際にはタオ・マーから空軍部隊の指揮権を取り上げ、事務職に追いやる策略でした。
こうして追い詰められたタオ・マーは10月21日、ついに軍事クーデターを実行に移します。サワンナケート基地から出撃したタオ・マー指揮下の空軍T-28(元は練習機だがラオスでは攻撃機として使用された)編隊は首都ビエンチャンの王国軍参謀本部、第5軍管区本部および弾薬庫を爆撃し、多数の死傷者を出します。
また同時にタオ・マー派の陸軍部隊が王国軍参謀長ウアン将軍を拉致する手はずとなっていましたが、土壇場で陸軍部隊司令官がタオ・マーを裏切り反乱から離脱した事で、政府軍の指揮系統を寸断する事に失敗。地上部隊なしでの首都制圧は不可能となり、タオ・マーはクーデターを断念してタイ王国に亡命します。

しかし、その後もタオ・マーはタイ領内で再起を図ります。
1966年のクーデター未遂から7年後の1973年、ラオス王国政府とパテートラーオ間で停戦協定が結ばれたのを機に、タオ・マーは停戦に反対するラオス国内の右派将校と結んで再度ビエンチャンでクーデターを実行します。
秘密裏にラオスに戻ったタオ・マーと同志たちはすぐさまワッタイ基地を占拠し、タオ・マー自身もT-28を操縦し政府軍を爆撃しました。
しかしタオ・マーが出撃している間にワッタイ基地は政府軍によって奪還されており、それを知らずにタオ・マーがワッタイ基地に着陸しようとした際、地上の政府軍から重機関銃による銃撃を受け乗機は墜落。
タオ・マーは地上で逮捕され、そのまま第5軍管区本部に連行されて即時処刑された事でクーデターは終わりました。

1973年クーデター未遂事件の映像

  


2025年01月04日

東洋漫遊記④国道9号線

フエ観光を終えた翌朝7時、予約していたバスに乗り、ラオス・サワンナケートへ向けて出発します。
本当は飛行機でハノイやサイゴンを経由して行った方が圧倒的に楽なのですが、せっかく目の前にインドシナ国道9号線やベトナム戦争期のDMZ(非武装地帯)があるので、現地を通っていきたかったのです。

▲今回乗ったフエ発・サワンナケート行バスのルート。所要時間約10時間


▲大型の高速バスなのに乗客はたった8人という贅沢仕様!(客席の2/3はラオスへ運ばれる貨物でぎっしり埋まっている)


まず、フエを出発すると国道1号線を北上して1972年赤火の夏(イースター攻勢)の激戦地クアンチ、ドンハを通過。
ドンハから国道9号線に入り、西に進みます。
しばらく進むと、1968年のケサンの戦い(ペガサス作戦)の激戦地ケサンを通過。

▲ケサン近郊。悪天候で景色は良く見えませんでした。

ここから先は1971年の南ラオス戦役(ラムソン719作戦)におけるベトナム陸軍第1騎兵旅団の進軍ルートです。
そしてベトナム・ラオス国境に到達。


国境越えの際、出入国の窓口で謎の通行料を徴収され一文無しになりました。(ドンを余らせないよう現金を最小限しか持っていなかった)
しかもこの日は朝ご飯を食べていなかったので、お昼ご飯を買うお金も無くなり、サワンナケートに着くまで一日中何も食べられませんでした(泣)



ラオス領内の9号線からの眺め

▲9号線を西進するベトナム軍(1971年)

途中通過したドンという町にはラムソン719博物館という施設があるそうなのですが、ここに行くには高速バスを降りて地元の路線バスに乗り換えたりしなくてはならず、それだけで1日がかりになりそうだったので、今回はスルーしました。
そしてベトナム陸軍第1歩兵師団が一時占領に成功するも、その後共産軍の総攻撃に遭い全滅状態に陥ったセポーンを通過。
これにてラムソン719進軍ルート素通りバスツアーは終了です。夕方まで車内で寝てました。

バス旅の終盤、かつてのラオス王国軍空挺部隊の本拠地(ラオス空挺発祥の地・第1空挺大隊本部および空挺訓練センターの所在地)セノを通過。
そして17時ごろ、ようやくサワンナケートに到着しました。バス停に着いたらすぐATMに行って現金(キープ)をゲット。
ホテルにチェックインして、ホテルの近くのレストランでチキンカツのカオマンガイを頂く。腹が減っていた分よけいに美味かったです。



こうして人生初のラオス旅1日目が終わりました。


(この夜、たまたまホテルの隣の建物で結婚式が行われており、深夜まで大音量でカラオケ大会が続いていてマジむかついた)
  


2025年01月02日

東洋漫遊記③フエ皇城

新年明けましておめでとうございます。
実は僕は12月のベトナム・ラオス旅で体力を限界まで使い切ったらしく、帰国したその日から風邪をこじらせて1週間以上出歩けない状態が続いております。
なので毎年恒例の氏神様での年越しもベトナム寺への初詣もできませんでした。
とは言え、本来グレゴリウス暦なんて日本人には意味のない暦なので、太陽太陰暦(旧暦)の正月に本来の初詣をすれば良いかなと思っております。

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以下、旅の記録の続き

フエではもちろん、ベトナム屈指の史跡であり観光地でもある、フエ皇城(ダイノイ)にも行ってきました。


ダイノイは阮朝ベトナム(大南国)の創始者 嘉隆帝(ザーロン帝)が新たな宮廷として1804年から建設を開始し、最後の皇帝 保大帝(バオダイ帝)が1945年に退位するまで約140年間使われた、阮朝の栄華と没落を物語る宮殿です。

ちなみにホー・チ・ミンの八月革命によって退位して以来国外に亡命していたバオダイは、1948年にベトナム国国長(国家元首)としてベトナムに帰国を果たしますが、ダイノイには戻らず、以後はダラット等のリゾート地で生活しました。そのため皇帝を警護するベトナム陸軍近衛大隊もフエではなくダラット駐屯です。

ダイノイは本当に素敵な場所で、何時間居ても飽きませんでした。
中では写真を撮りまくりましたが、全部紹介していると切りがないので、今回は僕が特に興味をひかれた部分を掲載します。


紫禁城と太和殿


ダイノイは中国北京の紫禁城を手本としており、宮廷の最重要儀礼を行う宮殿は中国と同じく「太和殿(Điện Thái Hòa)」という名前です。
もちろん古代中国から受け継がれ、日本の朝廷でも取り入れてきた「天子南面」の思想に基づき、ダイノイおよび太和殿も南側が正面となっています。
また、太和殿の後方(北側)にあり、皇帝一家と側室・女官・宦官が暮らす後宮エリアはズバリ紫禁城(Tử Cấm thành)」という名前です。
(本家中国の「紫禁城」は後宮だけでなく宮殿全体を指す)


太和殿の前には式典の際の廷臣の立ち位置を示す石の看板が立っていますが、そこに記された官位も中国と同じく正一品から始まるものです。

実はこの太和殿、老朽化によりかなりボロボロの状態になっていたそうで、2021年から解体を伴う本格修復が行われていました。
そして僕が訪れる約1月前の2024年11月、3年がかりの修復工事が終わった事を記念し、阮朝の朝廷儀式を再現した完成式典が行われました。



僕はこの修復工事の事を知らずにフエに行ったので、日にちが1か月早ければ太和殿はまだ工事中で中を見れないところでした。ラッキーでした。



ベトナム戦争期

一応教養として阮朝時代についても学んだものの、やっぱり僕が一番興味あるのはベトナム戦争期。
ダイノイは1945年のベトミンによる破壊に続いて、1968年にはまたしてもベトコンによるマウタン1968(テト攻勢)で激しい戦禍に見舞われボロボロに崩壊します。
そんなベトナム戦争期のダイノイと現在の比較写真を撮ってきました。


自分たちベトナム民族の財産たる史跡をこんなボロボロになるまで破壊できてしまうのだから、戦争は恐ろしい、いや、戦争は単なる結果であって、その根底にあるのは人間の正義感と憎悪。
正義に酔うのは簡単。憎悪に狂うのも簡単。しかしそれがどんな結果を生むか想像する力は、一朝一夕で養えるものではありません。
歴史を保存し学ぶ意義はここにあります。
  


2024年12月29日

東洋漫遊記①サイゴン

12月後半、ベトナムとラオスを旅してきました。



まず、旅の始まりの地サイゴンでは、前もって会う約束をしていたトニー君と初対面。


ベトナムには「ARVN好き」を名乗るマニアはそれなりに居ますが、正直、総じてレベルは低いと感じています。
そんな中で、彼は年齢は若いですが、飛びぬけて知識が豊富で、ベテランとのコネも多く持つ一流の研究者の一人なのです。
そんなトニー君の運転するスクーターに乗って一緒にヤンシン市場に行きました。

僕は数年前、ヤンシン市場を訪れた際にベトナム戦争期のベトナム共和国軍野戦服ボタンと同型の物(おそらく戦後も同じ型で人民軍向けに生産が続いた)を100個ほど買ったことが有るので、今回もそれを買いに行きました。
しかし軍装品店でボタンちょうだいと言うと、かなり奥にしまってあるので今日は取り出せない、別の日に来てくれと言われてしまいました。ガッカリ
後日トニー君に代理で買ってもらい、日本に送ってもらう事になりました。

他には特に探している物は無かったので、適当に市場内を歩き、気になった物を購入。

①コンナイの瓶


コンナイ(鹿)はサイゴン市チョロンに本社を置く華人系のフントアン(Phương Toàn)社が生産していたサルシ(シオデという植物の種から作られるソフトドリンク)で、ベトナム共和国期はBGI社のコン・コップと双璧をなした人気炭酸飲料だったそうです。

コンナイの販促ポスター

なお上の記事によると、フントアン社は当時、ライバルの米国ペプシ社のベトナム市場参入を阻むため、ベトナム国内の空き瓶回収業者に金を渡してペプシの空瓶を破壊させたそうです。これによりペプシは毎回米国から新品の瓶を輸入せざるを得ず、コストがかさんだため本格参入できず、ベトナム共和国期の飲料市場はBGI社とフントアン社の独占状態だったそうです。
その後、フントアン社は1975年の終戦後もコンナイを生産し続けましたが、1980年代にひっそりと経営破綻したそうです。なので今回買った瓶がベトナム共和国時代の物なのか戦後製なのかは分からないのですが、少なくとも瓶の外観は共和国時代と同一っぽいので記念品としては満足です。


②ベトナム共和国パスポート


こちらはアンティークショップで見つけた掘り出し物です。
これだけ良い状態で残っているのは正直驚きでした。


持ち主は軍人のようです。
1958年にカンボジア(クメール王国)に渡航しており、中にはその時のクメール語の書類も残っていました。




おまけ

こちらは僕ではなく、トニー君が買った古写真。


空挺師団の偵察中隊という割とレアな写真です。4ポケット作戦服を着ているのでおそらく1973~1975年頃のもの。
右胸ポケットの丸いパッチが空挺師団内の偵察中隊(第1~第3中隊共通)で、左胸のネームテープの上にあるのが長距離偵察証です。


今回、人と会う約束をしていたのはこの日のみなので、翌日から本当の一人旅がはじまります。
  


2024年11月27日

VMX/初代タイガーストライプ発売!!!

※2024年12月01日更新


ベトナムのĐLCHから、TTA47裁断のザーコップ(VMXパターン)迷彩服のレプリカが発売されました!
分かりやすく言うと、ベトナム海兵隊が1957年に開発した、一番最初のタイガーストライプです。
その後現代まで70年近く続くタイガーストライプ迷彩の歴史はこの服から始まりました。
この服自体はベトナム戦争が始まる以前の50年代末のベトナム海兵隊でしか使っていない服なのでレプリカなんて望めないと思っていましたが、出ちゃいましたよ。まさかこんな日が来ようとは!

【関連記事】
海兵隊ザーコップ迷彩について:https://ichiban.militaryblog.jp/e1084861.html
ベトナム海兵隊の歴代戦闘服:https://ichiban.militaryblog.jp/e1136674.html




この服が使われた当時、まだ海兵隊全体を示す部隊章は制定されていなかったので、左袖には『第1上陸大隊(Tiểu Đoàn 1 Đổ Bộ)』部隊章のレプリカを縫い付けています。


第1上陸大隊の部隊章は中央に「赤い星」がデザインされていますが、これは海兵隊の前身の一部となったフランス植民地軍コマンドス・ノルト・ベトナム(北ベトナムコマンド)の部隊章から継承されたもので、その後1960年にアメリカ海兵隊のEGA(鷲・地球・錨)の意匠を取り入れた新徽章がベトナム海兵隊章として制定された後も、赤い星は海兵隊のシンボルとして受け継がれていきます。


世界的に「赤い星」は共産主義のシンボルとされていますが、なぜかベトナムの場合は共産主義とは見なされず、むしろ反共主義の軍隊の部隊章に使われ続けたのは面白いですね。  


2024年11月26日

11月の撮影会

日曜日に今年最後の撮影会を行ってきました。
今回のテーマは1969~1970年頃のベトナム陸軍空挺師団です。






1976年発売のフィルムカメラ用レンズを搭載したデジタル一眼レフで撮影し加工した写真がこちら




楽しいのは楽しいんだけど、こうも毎回同じ場所だと飽きてきちゃうんですよね・・・。
場所の制約のせいで、やれる事が限られちゃう。
公共の場所だから穴掘る訳にもいかないし。
本当は月一ペースで教練会やりたいんですが・・・。
実は撮影場所探しは前々から行っているのですが、今以上に良い場所はまだ見つかっていません。
来年こそは
  


2024年11月03日

グエン・カオ・キのスパイ潜入作戦

※2024年11月4日更新


当ブログの10月の検索キーワード上位にベトナム共和国副総統「グエン・カオ・キ」の名前がありました。

グエン・カオ・キと言えば、1965年に陸軍のグエン・バン・テュー将軍と共同でクーデターを起こし政権を握って以来、6年近くベトナム共和国政府の首脳を務めた人物なので、日本でも知名度はかなり高いようです。
(ただし国家元首は常にテューであり、キはナンバー2の地位でした)

テュー総統(左)とキ副総統(右)

このようにキは政治家として有名な人物ですが、彼は政界に進出する以前にも、軍人として非常に特殊な経験をしています。
それが1960年代初頭に米国CIA主導により実施された北ベトナムへのスパイ空挺潜入作戦への参加です。

CIA主導による北ベトナムへのスパイ工作は、1954年にジュネーブ協定でベトナムの南北分断が決定した直後から始まりました。
最も初期のスパイは元々ベトナム北部に住んでいた反共思想を持つベトナム人であり、彼らはCIAにより工作員として訓練を受けた後、そのまま北ベトナム領に残留し、ホー・チ・ミン政権下でスパイ活動を行いました。

その後、1957年にベトナム共和国(南ベトナム)軍初の特殊部隊『第1観測群(後のLLĐB)』が発足すると、以後CIAは第1観測のコマンド隊員をスパイとして北ベトナムへ潜入させていきます。
当初、この南から北への潜入作戦は、漁船を装ったジャンク船で南シナ海を北上し、夜間に北ベトナムの沿岸に上陸する海上ルートが選択されていました。
しかし間もなく北ベトナム側が南からの侵入者に気付き海上警備態勢を強化したため、工作船が海上で撃沈されるなど、海上ルートの使用が厳しくなっていきます。
一方、同時に検討された陸上ルートは、侵入の難易度は高くなかったものの、侵入が容易な山岳地帯はそもそも人口が少なくスパイを潜入させたとしても得られる情報自体が乏しかった為、陸上ルートが選択される事はありませんでした。

こうしてCIAが次にとった作戦が、航空機からの空挺降下によるスパイ投入です。
CIAはすでに1950年代から中国広東省およびチベッにおいて空挺降下による工作員の潜入作戦を数十回成功させてきた実績があり、ベトナムにおいても同様の作戦が選択されました。
作戦実行に当たり、CIAはアメリカの関与を隠匿するため、民間航空会社デラウェア社を介して南ベトナムにダミー会社『ベトナム航空輸送(VIAT)』を設立し、国籍マークの無いC-47輸送機1機を調達します。
そして、その越境潜入作戦のパイロットとして白羽の矢が立ったのが、当時空軍少佐としてタンソンニュット基地の司令官をしていたグエン・カオ・キでした。
当時のベトナム空軍は第一次インドシナ戦争中に創設されてから数年しかたっておらず、パイロットの質も人数も乏しいものでしたが、そんな中でキ少佐はモロッコでフランス空軍による飛行訓練を受けた、最も経験豊富なパイロットの一人と目されていました。

▲モロッコで訓練中のベトナム空軍最初期のパイロット達(1953年)

キ少佐はCIAからのオファーを受け入れると、自身の配下にある20名の空軍軍人を作戦のために招集し、キ少佐のチームはCIAにより『ヘイリフト(Haylift)』と命名されます。
イリフトのパイロット達は通常の輸送機パイロットとしては十分な経験を持っていたものの、潜入作戦に当たっては夜間に山岳地帯を低空飛行し、かつ非常に狭い着地地点に工作員を空挺降下させなければならなかったため、CIAはチベットでの潜入作戦に従事してきたエア・アメリカ社のベテランパイロットを教官としてベトナムに召集し、イリフトのパイロット達を徹底的に訓練します。
そして数か月に渡る厳しい訓練の結果、多くの者が脱落し、最終的に残ったのはキ少佐指揮下のメインクルー5名と、ファン・タイン・ヴァン中尉指揮下の予備チームのみでした。
こうして訓練を終えたイリフトは最終リハーサルとして、CIAサイゴン支局長ウィリアム・コルビーを乗せてトンキン湾での夜間低空飛行演習を行います。
コルビーも第2次大戦中、OSSのコマンド隊員としてナチス占領下のフランスに空挺降下し破壊工作を行った経験を持つ人物であり、キ少佐の操縦による水しぶきが機体にかかるほどの海面スレスレの超低空飛行を大いに気に入ったといいます。

そして1961年5月、米国ジョン・F・ケネディ大統領がCIAに作戦実行の承認を与え、ついに決行の時が訪れます。
5月27日、キ少佐が操縦するVIATのC-47輸送機に第77群(第1観測群から改称)潜入チーム『キャスター』4名が乗り込み、タンソンニュット基地から飛び立ちました。
この際、作戦失敗に備え、潜入チームはもちろんC-47クルーも全員、身分証の携帯は禁じられ、万が一敵に捕まった際は、自らを密輸業者と名乗るよう命じられたそうです。
その後、C-47は一旦ダナンに着陸して給油すると、22時に再度離陸して北ベトナム領空に侵入。ニンビンを経由して目的地のソンラ上空に到着します。
そして着地地点である828高地上空に差し掛かるとキ少佐は緑色の降下ランプを点灯させ、キャスターの4名はC-47から飛び降りていきました。
降下が終わるとC-47はすぐに反転し、帰投の途につきます。一方、キャスターも全員無事に828高地に着地し、初の空挺潜入作戦は成功したかに思われました。

しかし後に判明する事ですが、北ベトナム側はCIAが作戦を開始する以前から空からの侵入を予想しており、予め空挺降下に適した地点を調査してその地の警備を強化していました。
そして実際にC-47がソンラ上空を飛行すると、飛行騒音を聞いた現地住民はすぐさま当局にその事を通報し、降下から数時間後の5月28日朝には、828高地付近の村に北ベトナムの人民武装保安隊3部隊が集結します。
そして人民武装保安隊による捜索の結果、3日後にキャスターの4名は発見、逮捕されてしまいます。
しかし北ベトナム政府はこの事実を公表せず、CIAはキャスターが順調に作戦を遂行していると思い込んでしまったため、キャスター投入から1週間も経たない6月2日には、次なる潜入チーム『エコー』3名をクアンビン省に空挺降下させます。(この時のパイロットは不明)
しかしこの時も低空飛行するC-47の騒音が当局に察知され、翌日にはエコーのメンバー全員が逮捕されます。

さらに12日後、キ少佐の操縦で潜入チーム『ダイドー』4名がライチャウ省に空挺降下します。
しかし今度は衣類・弾薬・食料・無線機を積んだコンテナが風に流されて行方不明となり、ダイドー隊員は降下後3週間に渡って付近を捜索するもコンテナは見つかりませんでした。
最終的に隊員たちは作戦継続を断念してラオス領への脱出を試みますが、パラシュートが付近の住民に発見された事で人民武装保安隊の捜索隊が出動しており、ダイドーはラオス国境付近で逮捕されます。

こうして1961年7月までに北ベトナム側は3つの潜入チーム全てを発見、逮捕する事に成功していましたが、これは中国政府による指導の賜物でした。
CIAは1950年代に中国へのスパイ潜入作戦を数十回も行っていましたが、中国側もこれに対抗する方法論を確立させ、そのスパイ対策マニュアルが中国から北ベトナムに提供された結果、ベトナムにおいても従来通りの潜入作戦は通用しなくなっていました。
また北ベトナム側は、ただ潜入チームを逮捕するだけでなく、チームを装ってCIA側に通信文を送信する事で、彼らスパイが順調に作戦を遂行しているかのように取り繕い続けました。
これにCIAはまんまと騙され、7月1日には、キャスター(実際にはすでに逮捕されている)を支援するための補給物資と追加の人員をソンラに投入する為C-47が飛び立ちます。
元々このフライトはキ少佐が担当するはずでしたが、急遽予備チームのヴァン中尉に変更となっていました。
そしてヴァン中尉が操縦するC-47がニンビンに差し掛かると、待ち構えていた北ベトナム軍の高射砲が一斉に射撃を始め、C-47は撃墜されます。(機体は不時着し、その時点で7名の生存者がいましたが、後に怪我が原因で4名が死亡。3名がスパイ容疑で裁判にかけられます)

この時点でCIAは、キャスターら潜入チームが正常に作戦を行っているのか、あるいはすでに逮捕されていて工作員からの無線通信は北ベトナム側が送っている偽の物なのか、半信半疑の状態に陥っていましたが、どちらも確証を持つには至っていませんでした。
その為C-47の撃墜を受けてもなお空挺降下によるスパイ投入作戦は継続される事となり、VIAT社には新たにC-54輸送機が配備されます。
また同時期、グエン・カオ・キは中佐に昇進し、エア・アメリカ社のパイロットによりキ中佐チームに対するC-54の飛行訓練が行われます。
この訓練は1962年初めまでに完了し、その後キ中佐率いるC-54チームはシンガポールまで訓練飛行を行います。
この際、派手好きなキ中佐はシンガポールで黒い飛行服と紫色のスカーフを購入し、自身のチームのイメージカラーとします。
この潜入作戦に相応しくない目立つ服装にCIAのコルビーは苦言を呈しますが、キ中佐は意に介さず、以後、この服装はキのトレードマークとして長年愛用されていきます。

▲黒色のK-2B飛行服と紫色のスカーフを着用するグエン・カオ・キ(右)


1962年2月20日、キ中佐が操縦するC-54が第77群の潜入チーム『ヨーロッパ』5名を乗せて飛び立ち、ヨーロッパはホアビン省に空挺降下します。
しかし、またしても輸送機は飛行中に発見され、降下の翌日にヨーロッパは全員発見、逮捕されます。
そして今回も北ベトナム側はヨーロッパの無線手を装ってCIAに対し潜入成功の通信を送り、CIAはまたもそれを信用してしまいます。

さらにCIAは、前年の7月にC-47が撃墜された事で実施できていなかったキャスター(実際には9か月前に全員逮捕されている)への補給を再度実行に移します。
キ中佐のチームがヨーロッパのミッションに出ていたため、このキャスター支援作戦にはホイ大尉のチームが選ばれ、もう一機のC-54でタンソンニュット基地から飛び立ちました。
しかし不幸にも今回は天候が悪く、ソンラに差し掛かったところで低空飛行の中暴風雨に見舞われたホイ大尉は方向感覚を失い、C-54は山に激突してクルーは全員死亡します。

これを最後にCIAは潜入作戦にベトナム空軍パイロットを用いなくなり、代わってCIAは中国への潜入ミッションの経験が豊富な台湾人パイロットをチャイナ・エアラインから招聘し、以後VIAT社の特殊工作機は彼ら台湾チームが操縦桿を握る事となります。
しかしCIAはその後も北ベトナムによる欺瞞工作に騙され続け、すでに逮捕されている工作チームをまだ健在と信じ、さらなる失敗を積み重ねていきます。
最終的に、潜入諜報工作の権限がCIAから米軍MACV-SOGに引き継がれた1964年の時点で、北ベトナム当局が拘束した南ベトナム側の潜入工作員は300名に上っていました。

※越境作戦に投入された特殊部隊の歴史については過去記事NKTとSOG 越境特殊作戦部隊の歩み[1]』参照

このように60年代初頭のスパイ潜入作戦はCIAの硬直化した指揮運用のために失敗続きだった一方、グエン・カオ・キ自身は全てのフライトでパイロットとしての役割を十二分に果たし、軍での権勢と共にCIAとのコネクションも作れたことで、3年後のクーデター・権力掌握の足掛かりを得ます。
後の世で大変な嫌われ者になるキですが、少なくともパイロットとしての腕前は超一流だった事は間違いないでしょう。

グエン・カオ・キが潜入チームを送り届けた地点

また1961年7月にニンビン省で撃墜されたC-47は元々キが担当するはずだった訳で、もし彼が当初の予定のまま操縦桿を握っていたら、キは戦死、良くても北ベトナム当局に逮捕され以後十数年間投獄されていた事でしょう。
そうなればキが政治の表舞台に登場する事はなく、ベトナム戦争の歴史そのものが大きく変わっていたのかも知れません。
  


2024年09月21日

調査中の制服・徽章(第一共和国期)

以下の組織の制服・徽章類については資料が少ないため、当時の写真等から得られる断片的な情報を地道に集めていくしかない状態が続いています。
なので、まとめと言える状態ではないですが、もしかしたら広い世の中には同じ分野に興味を持っている人が誰か居るかもしれないので、今現在分かっている事を公開してみます。

①保安民衛局(Nha Bảo An và Dân Vệ)

保安民衛局はベトナム共和国内務省内の民兵部門で、1955年から1964年まで全国に民兵組織『保安隊(Bảo An Đoàn)』と『民衛隊(Dân vệ đoàn)』を擁しました。
その後、これらの民兵組織は1964年に国防省に移管され、『地方軍(Địa Phương Quân)』および『義軍(Nghĩa quân)』へと発展。それらを統括する『地方軍・義軍本部(Bộ Tư lệnh Địa phương quânn-Nghĩa quân)』が設置されました。
(地方軍発足以降については過去記事『地方軍』参照)


▲保安民衛局徽章

保安民衛局の帽章

▲保安民衛局職員の制服
肩章に保安民衛局の徽章、加えてもう一つ星が付いているので、これは階級章と思われますが、この写真以外にはまだ何の情報もありません。



②公安警察総局(Tổng Nha Cảnh Sát Công An)

1955~1962年まで、ベトナム警察は『公安警察総局(Tổng Nha Cảnh Sát Công An)』の下部組織であり、その公安警察総局では警察とは異なる独自の制服・徽章が着用されていました。

▲公安警察総局職員の制服
肩章には何かケバケバしい模様とCACS(公安警察)の文字が刺繍されています。
この模様の部分は、人によってデザインが違うように見えるので、もしかしたらこの模様で階級を示しているのかも知れません。
しかし、こちらもまだまともな資料を見た事ありません。

参考までに、同時期(公安警察総局隷下)のベトナム警察の制服と肩章・帽章はこちら


その後、1962年に公安警察総局は解体され、新たに『国家警察(Cảnh Sát Quốc Gia)』へと改編されます。これ以降、すべての警察組織の制服・徽章は統一されます。



③右側飾緒

こちらはベトナム軍で第一共和国期(1955-1963年)のみ着用例が見られる飾緒です。
通常ベトナム軍で用いられる飾緒は左肩の英勇章部隊感状のみであり、この右側飾緒については何の資料も見当たりません。

 

とは言え、上の写真のように、右側飾緒の着用例が見られるのは大礼服や準礼服のような礼装の時のみであり、またデザインも英勇章部隊感状のような等級別に分かれたものではなく全て同一の金色に見えるので、この飾緒は単なる礼装用の装飾のように思えます。
しかしそうだとすると、今度はなんでジェム政権崩壊後には一切見られないのか、という疑問も湧いてきます。(同様に詰襟の陸軍大礼服もジェム政権崩壊後に姿を消す)
もしかしてこれら詰襟大礼服や右側飾緒はジェム総統からの表彰を表すものだったりして?だからクーデター後の新政権下で着る訳にはいかなかったのかも?
想像は膨らみますが、所詮は推測なので、引き続き調べていきたいと思います。
  


2024年09月14日

最近買った本

※2024年9月14日更新
※2024年9月22日更新


9月に入っても、まだ猛暑が続いてますね。こう暑いとお外で遊ぶ気にならないので、この夏はエアコンのきいた部屋の中で読書をしておりました。
なので今回は、最近買った本を紹介します。(買った後まだ読んでいない本も含む)

忘れられた戦争の記憶/ソーステン・フェルナンデス

先週、元FANK(クメール国軍)総参謀長ソーステン・フェルナンデス将軍の回顧録『MÉMOIRES D'UNE GUERRE OUBLIÉE(忘れられた戦争の記憶)』の英語版がついに発売されました!

https://www.amazon.co.jp/dp/B0DGFDSDSN


実はこの本は元々フランス語で書かれたもので、すでに2015年には出版されていたそうですが、僕はフランス語が分からないので手を出せていませんでした。英語だって長文読むのは楽ではないですが、全く読めないよりはだいぶマシなので助かります。
そもそも第一次カンボジア内戦(1970-1975)についてカンボジア(クメール)軍人が語った本というのは、日本語はもちろん英語文献すらほとんど無かったのですから、そんな中で総参謀長として戦争を指揮した中心人物の回顧録が読めるといのは、それだけでありがたい話です。


②ラオスに捧げたわが青春/山根良人

こちらは打って変わって、1984年に出版された古い本。しかも僕にしては珍しく日本人が書いた本です。

https://www.amazon.co.jp/dp/4120013081


著者の山根良人氏(ラオス名:サワット)は、太平洋戦争中に日本陸軍伍長としてビルマに出征し、終戦後サイゴンの日本軍捕虜収容所から脱走してラオスに到達。そこでラオスの抗仏組織ラーオ・イサラ(後のパテートラーオ)に軍事顧問として参加します。
ここまではベトミンに参加したベトナム残留日本人と似ていますが、山根の場合はその後、自分たちパテートラーオ軍ベトミンに支配され使い捨てられている事に反発し、部下を率いて脱走。そして山根の隊はラオス王国政府からの帰順要請を受け入れ、フランス連合軍に編入。それまで敵だったフランス軍の指揮下でベトミンおよびパテートラーオ軍と戦います。
山根その後も引き続きラオス陸軍将校として軍務を続け、ラオス戦争ではラオス王国軍(FAR)大佐として、パテートラーオおよび北ベトナム軍との戦いを20年間続けます。(この間、国王から爵位を与えられ貴族に列せられる)
1975年にラオス戦争が終結、王国政府・王国軍が消滅すると、山根(サワット大佐)は再教育キャンプに送られ、釈放後は民間人として引き続きラオスに居住。1982年に家族を連れて日本に帰国します。
日本人読者の注目を得るため、本の副題には「元日本兵の記録」と書かれていますが、山根が日本軍に所属していた期間は2年間ほど。一方、「ラオス人サワット」としてラオス軍に従軍していた期間は30年に及ぶので、彼は正真正銘のラオス軍人なのです。
私は、巷にある「日本兵が戦後アジアを独立に導きました」等の日本人の自慰行為的な美談を冷めた目で見ているのですが、少なくともこの本は、「ラオス軍将校の回顧録を日本語で読める」という点において非常にありがたい資料だと思っています。



③カウボーイ/ダニエル・フォード

ベトナム戦争中、アメリカ兵から『カウボーイ』と渾名されたFULRO(被抑圧民族闘争統一戦線)大佐フィリップ・ドロウイン(ジャライ族)についての記録です。

https://www.amazon.co.jp/dp/B07BK7BG2T


著者は映画『Go Tell the Spartans(邦題「戦場」)』の原作者ダニエル・フォードです。
カウボーイことフィリップ・ドロウイン大佐については、CIDG部隊で彼と共に戦った米陸軍ジム・モリス少佐が著書「WAR STORY(邦題「グリーン・ベレー」)」で、彼との思い出やFULROとの関係を詳しく記しており、私はそのストーリーに心酔してイラストや漫画も描いていました。(過去記事『カウボーイ』参照)
ただしWAR STORYはあくまでモリス少佐の回顧録なので、カウボーイに関する情報はモリスがカウボーイと関わった事柄に限定されていました。
一方、今回買ったダニエル・フォードの本は、そのカウボーイという人物に的を絞って調査研究した本なので、まさに僕の求めていた情報の塊なのです。
一生モノの本になると思うので、じっくり読み進めたいと思います。



④ボーイズ・イン・ブラック/デズモンド・ボール

おそらく英語で書かれた本では唯一の、タイ王国準軍事国境警備組織タハーンプラーンに関する研究本です。

https://www.amazon.co.jp/dp/9744800461


Amazonで買うと高いので、タイの出版社から直接買いましたが、送料の高さと円安のせいで、結果的には全然安くなりませんでした。
中をざっと見た感じ、割と最近の2000年頃の情報がメインですが、一応タハーンプラーン黎明期かつ最も戦闘の激しかった1980年代についてもある程度ページを割いています。



⑤ベトナムの少数民族定住政策史/新江利彦

タイトルの通り、ベトナムの少数民族問題を研究、まとめたすんごい本です。これが日本語で読めるのが素晴らしい。

https://www.amazon.co.jp/dp/4894891158


僕はこの本を国会図書館で見つけ感激したのですが、価格が高くてなかなか手が出ない状況が続いていました。
ところが先日、偶然にもメルカリで中古が安く売られているのを発見。迷わず購入しました。



[おまけ] チャーリー/ケン・コンボイ

こちらは先日来日したケン・コンボイ先生(著者自身)からプレゼントして頂いた本です。

https://www.goodreads.com/book/show/55857681-charlie


この本はインドネシア軍特殊部隊コパスス(Kopassus)が1980年代末から行った特殊工作計画『プロジェクト・チャーリー』について研究した本です。
私は東南アジア軍事史好きを自認していますが、対象はあくまで大陸部のみで、正直インドネシアについてはほとんど何も知りません。
しかし、あのコンボイ先生が何十年も熱中するくらいですから、インドネシア軍の歴史も相当厚みのある(そして闇が深い)ものなのでしょう。
現時点で読まなきゃいけない本が何冊も溜まっているので、ぶっちゃけこの本を読むのがいつになるのかまだ分かりませんが、いつか折を見て読んでみたいと思います。
  


2024年07月14日

ラオス戦争の右派・中立派勢力①1954-1965

ラオス戦争というのは同時期のベトナム戦争と大きく異なり、右派・左派の対立に加えて中立派が独立勢力として存在し、右派・左派間を行ったり来たりし、それらが停戦・連立政権を作ってはすぐに分裂・内戦再開、さらにそこにアメリカや北ベトナムががっつり軍事介入しているという非常に複雑な経緯を辿っています。
例えるなら最初は「連邦vsジオン」だったのが、次第に「ティターンズvsエゥーゴvsネオジオン」に、そして気付いたら「ギルガメスvsバララント」になってた感じ。
ただ本を読んでるだけでは全然頭に入ってこないので、また要点をかいつまんで図と年表にまとめました。


王国政府とパテート・ラーオ

1954年8月 ジュネーブ協定(1954)により第一次インドシナ戦争終結。協定でラオス王国政府とパテート・ラーオの合流が謳われる
1955年6月 パテート・ラーオが王国政府と対立。双方が軍事作戦を開始
1957年 和平の為、中道的政治家スワンナプーマーを首相、内閣に2名のパテート・ラーオ議員を入閣させた連立政権(第1次連合政府)が発足
1958年5月 立法議会補欠選挙で左派が僅差で過半数を獲得
1958年7月~8月 左派の勝利にアメリカが反発しラオスへの経済援助を停止。経済危機を受けてスワンナプーマー首相は辞職し、右派のプイ・サナニコン内閣が発足。連立政権は消滅
1959年1月 プイ首相が1年間の首相独裁制を宣言。パテート・ラーオ議員はサムヌア県に避難する
1959年5月 交渉の末、パテート・ラーオ軍がラオス国軍に編入される事に同意。しかしパテート・ラーオ2個大隊のうちジャール平原大隊は編入を拒否して北ベトナム領に逃亡。また編入を受け入れたルアンパバーン大隊からも脱走者が続出。(残った兵士はラオス国軍第26歩兵大隊へ編入)
1959年7月 北ベトナムで訓練を受けていたパテート・ラーオ部隊が国境を越えてラオス国軍の前哨基地を攻撃。4基地が陥落する。(直後に2基地は奪還される)
1959年7月 王国政府はビエンチャン市内に残っていたパテート・ラーオ幹部を一斉検挙
1959年12月 プイ首相が辞任し、国防大臣プーミ将軍が暫定政権の実権を掌握
1960年4月 総選挙で右派が勝利(プーミ将軍による投票結果操作が濃厚)。右派の議決により全ての左派議員が失職させられる


ラオス軍の分裂

1960年8月 コンレー大尉率いるラオス軍第2空挺大隊が、右派の暴走を止め内戦終結を目指すとしてビエンチャンでクーデターを実行し、スワンナプーマーを首相に据えた新政府の発足を宣言
これに対しサワンナケートに逃れたプーミ将軍ら右派は中立派新政府を認めず、ラオス軍は右派の王国軍(FAR)と、コンレーの中立派軍(FAN)分裂する。(※右派が正式に王国軍へと改称するのは1961年9月)
中立派はパテート・ラーオとの協調を掲げ、パテート・ラーオ軍と北ベトナムの軍事顧問団をソ連機でビエンチャンに迎え入れる。
1960年9月 サムヌア県をめぐって王国軍の第1空挺大隊と中立派軍の第2空挺大隊が戦闘に突入。この混乱をついてパテート・ラーオ軍と北ベトナム軍が続々とラオス領内に侵入。
1960年11月 王国軍が首都ビエンチャン奪還のためサワンナケートから北上開始
1960年12月 王国軍と中立派軍がビエンチャン市街で激突。王国軍が勝利し、中立派軍はビエンチャンから撤退する
1961年1月 中立派軍がソ連・北ベトナムからの支援を受けて王国軍からジャール平原を奪取
1961年1月 米国ケネディ政権はPEO軍事顧問団を増派し、107名からなる「モンクフッド」(ホットフットから改称)を王国軍の各大隊に配属
1961年1月 米国CIAは王国軍を支援するためラオス領内の少数民族を民兵として戦力化する不正規戦プロジェクト開始
1961年1月~3月 国道13号をめぐり王国軍と共産軍が衝突。王国軍が敗退する
1961年3月 王国軍はそれまで臨時編成だった機動群(GM)を常設連隊に指定
1961年3月 中立派軍は第2空挺大隊を6個中隊編成とし、さらにそれぞれの中隊を大隊に拡大して第1~第5空挺大隊および空挺訓練センター(BAP)とする
1961年4月 王国軍は中立派軍と共産軍が保持する国道13号奪還作戦を実行するが失敗に終わる
1961年4月 米国PEOは正式に軍事顧問団(MAAG)へと改編され、モンクフッドは「ホワイトスター機動訓練チーム」へと改称される
1961年5月 王国軍・中立派軍・共産軍が停戦に合意。ジュネーブで和平会議が始まる
1962年1月~5月 王国軍はラオス西部の空白地帯の奪取に動くが、これに共産軍が対抗し戦闘が再開する。激しい戦闘の末、王国軍は敗北しタイ領に敗走する
1962年7月 ジュネーブ協定(1962)が調印され、第2次連合政府発足。再びスワンナプーマーが首相となる。
協定で外国軍の退去が定められたため、王国軍を支援する米軍軍事顧問は完全に撤退したが、北ベトナム軍は協定を無視して戦闘部隊をそのままラオスに駐屯させる
1962年 王国軍は第6、第7軍管区を新設。また軍管区の上位組織として北ラオス軍団・南ラオス軍団を新設する。


右派・中立派の迷走

1963年2月 パテート・ラーオとの同盟をめぐって中立派軍内で内紛が深刻化
1963年4月 パテート・ラーオは同盟を放棄して中立派軍を攻撃。中立派軍はジャール平原から撤退。同時に中立派軍内の親共派は「愛国的中立主義軍」を名乗って中立派軍から離脱し共産軍に合流する
1963年4月 共産軍と中立派軍の決別を受け、米国は中立派軍への軍事支援を開始。また王国軍も中立派軍への援護を開始する
1963年11月~1964年1月 パンハンドル地域の奪還を目指し王国軍・中立派軍が共同作戦を開始。激しい戦闘の末、作戦は失敗に終わる
1964年4月 右派の国家調整局長官シーホー中佐がビエンチャンで軍事クーデターを実行し、右派・中立派幹部を襲撃する。しかし米国は引き続きスワンナプーマー首相を支持しシーホー政権を拒否したため、クーデターは失敗に終わる。
1964年4月 シーホーのクーデター未遂を受け、中立派軍幹部は右派・王国軍との同盟解消をコンレーに求め、一部部隊が勝手にジャール平原から撤退した事で共産軍の攻撃が王国軍に集中する
1964年4月 CIAの仲介で中立派軍のコンレーと王国軍第2軍管区/モン族軍司令ヴァン・パオが会談し、協力関係を築くことに合意する
1964年5月 共産軍が中立派軍を強襲し、その最中に中立派軍内の第4空挺大隊が離反し共産軍に寝返った事で中立派軍はジャール平原から撤退する
1964年5月 離反した第4空挺大隊が考えを改め中立派軍に復帰
1964年7月 王国軍・中立派軍・モン族SGU・タイ軍合同の「トライアングル作戦」開始。ジャール平原の一部奪還に成功する
1964年8月 ビエンチャンで王国軍プーミ―将軍が部下に軍事クーデターを起こさせるも失敗
1965年1月~4月 王国軍幹部の権力闘争がエスカレートし王国軍同士での戦闘に発展。最終的にこれまで右派を牛耳ってきたプーミ―将軍とシーホー中佐は共にタイに亡命する。

つづく
  


2024年06月22日

シーウェーブ塗り終わり


前記事

2020年に購入したIllusion militaria製ベトナム海兵隊ザーコップ迷彩4th(VMD/シーウェーブ)レプリカの色が気に入らなかったので、2022年1月から全ての黒い模様を油性ペンで塗るという地獄の塗り絵大会を始めた訳ですが、それがようやく完了しました。
前回同様一人で完成させる根性が無かったので、今回も引き続き友人に手伝ってもらいました。
なお今回はカラオケボックスの中で作業し、一人が塗ってる間、もう一人が歌を唄う写経&念仏スタイルを取り入れました。
二人で同時に塗るより作業スピードは落ちますが、ひたすら黙って作業するより、はるかに気が楽でした。
そうして購入から4年の時を経てようやく満足できる状態になった服がこちら。


手前味噌ですが、この世に存在するレプリカの中で最もリアルな見た目だと自負しております。
塗るのと塗らないのとでは、このくらい色が違います↓


メーカーは自社製品の間違いを認めることが出来ず、こういう青いシーウェーブも有ったと必死にアピールしていますが・・・。
そりゃあ、めちゃめちゃ探せば、そういうイレギュラーもあるのかも知れませんが、基本は無いです。
シーウェーブの黒は、青味の無い純粋な黒。色落ちしても青くならず、グレー系に薄くなるだけ。


ところで、この2年間ダイエット生活をしているお陰で、体重は最大時より11kg減、BMIは24.2にまで下がりました。(ついでに健康診断も全部A判定になった)
実はダイエットを始める前は、ウエストが太くてこのシーウェーブのパンツを履けるか怪しかったのですが、今なら余裕です。
やはり軍装趣味最大の敵は体脂肪。歳とって代謝が下がったせいで、運動しても思ったように体重は落ちません。
最も痩せていた状態に戻る事はもう一生無いのかも知れません。
それでも運動しなければ太る一方なので、なんとか年齢に抗っていきたいと思います。
  


2024年06月15日

ラオス戦争におけるCIA不正規少数民族部隊 補足・その他

※2024年6月17日更新
※2024年7月7日更新
※2024年7月17日更新

前記事


これまで3回に渡ってラオス戦争におけるラオス王国軍所属のCIA不正規部隊(通称SGU)の略史を書いてきましたが、今回はその補足になります。


SGUのまとめ
(表をクリックするとPDFが開きます。)


この表は私が今現在把握している部隊のまとめになります。
かなり推測も含んでいるので、新しい情報が入手出来次第更新していきます。
大体のスケール感を把握するため、行(横列)は大隊を意味していますが、不正規部隊なので大隊といっても一般的な軍隊のような約1000名に届くことはほとんどなく、中には150名程度で大隊と呼称されている場合もあります。
この他、ADC中隊や少人数の特殊部隊、偵察チームが多数存在しましたが、詳細を把握できていないので今後の課題とします。

構成民族ごとの色分けを見てもらえば分かると思いますが、実はCIA麾下のSGUとして有名なモン族の割合は全体の1/5ほどしかありません。
実際にはSGUを構成した民族のうち、最も人数が多いのはラオ・トゥン人、つまりデガであり、SGU全体の約半数を占めました。
ただしCIAにいち早く協力しSGU内で最精鋭とされたのはモン族であり、ヴァン・パオという強力な指導者が居た事、激戦地であるジャール平原に住んでいた事が重なり、モン族はラオス王国政府軍の中心勢力となりました。

また、学術的にはモン族はラオ・スーン人の一部とされています。
しかしラオ・スーン人の中ではモン族が最も人口が多く独立した勢力を持っており、それ故にラオス戦争に関与した度合いも非常に高いので、ラオス戦争を扱った書籍ではモン族と他のラオ・スーン人諸部族は区別して書かれています。
その為、当ブログでも便宜上モン族とラオ・スーン人を分けて書いています

ところで、Wikipedia日本語モン族のページには、編集者によるとんでもない無知・差別・偏見が書かれていますね。
「CIAは金属すら見たことのないモン族に銃の使い方から戦闘機の操縦法まで教え込んだ。」だそうです。
そうですか。モン族は1960年代まで、青銅器すら知らない、他の民族から五千年は文明が遅れた超未開人だったんですか・・・。
でもね。モン族(族)は古代から中国の歴史にちょいちょい登場し、漢人や周辺諸国家に対して度々反乱を起こして苦しめてますよ。
近世以降は火薬や鉄砲も量産して使っています。
多数派民族との違いは、人口が少なく独立国家を持てなかった事、それに伴い19世紀~20世紀に産業革命・工業化を経る事ができなかった点です。
それは確かに少数民族の泣き所ではありますが、決して現代文明を知らなかった訳ではありません。
少数民族=未開人と考えるのは、単にそいつの頭の中が未開、無知蒙昧なだけです。

タイのモン族村資料館に展示されていたモン族製のマスケット銃


話は変わって、これまでの記事は文章ばかりだったので、イメージしやすいよう、各SGU部隊の写真も載せてみます。

▲第2軍管区ADC中隊:モン族
当初ADCでは軍服は支給されておらず、各自が黒い民族衣装(と言うか野良着)を着ていましたが、後にラオス陸軍正規部隊と同じ軍服が支給されるようになります。

▲第2軍管区SGU/戦士大隊:モン族
SGUは不正規部隊ですが、軍装面ではベレー含め、ラオス陸軍正規部隊とほとんど同一です。

第3軍管区戦士大隊:ラオ・トゥン人(1971年)

▲第2軍管区強襲コマンド:モン族(1970年11月)
潜入作戦の為北ベトナム軍兵に扮装しているコマンド隊員強襲コマンドでは敵地上施設を攻撃するための携帯式ロケット砲として、航空機用の2.75インチロケット弾(FFAR)ポッドを改造したものが多用されました。

▲第4軍管区強襲コマンド:ラオ・トゥン人
強襲コマンドや一部の戦士大隊は落下傘降下能力を持つ空挺部隊として活躍しました。

▲コマンド大隊:タイ人(1971年)
タイ軍のラオス派遣は非公式なものであり、兵士は全員認識票などの個人を特定できる物の持ち込みを禁止されていたそうです。


▲エア・アメリカ社のベル204
道路事情の悪いラオス山岳地帯における軍事作戦には航空機が必要不可欠でしたが、政治的事情からアメリカ軍は直接ラオス領内で活動できなかったため、CIAはアメリカの民間航空会社エア・アメリカ社やCASI(コンチネンタルエアサービス社)と業務委託契約を結び、これら航空会社SGUの物資・兵員の輸送を担当しました
  


2024年06月11日

ラオス戦争におけるCIA不正規少数民族部隊の略史③1973~1975年

※2024年7月7日更新

前記事

【前回のあらすじ】
1960年代を通じて続いてきた北ベトナムによるラオス侵略は1970年代に入るとさらに激しさを増し、王都ルアンパバーンや第2軍管区本部ロンチェンは北ベトナム軍によって幾度も包囲され陥落の危機を迎えていた。
これに対抗してタイ王国政府はタイ陸軍部隊およびタイ人民兵をラオスに増派し、ラオス領内の少数民族に加えてタイ兵で構成されたラオス王国軍所属のCIA不正規部隊(通称SGU)は各地で共産軍(北ベトナムおよびパテートラーオ軍)と一進一退の攻防を繰り広げる。
しかし1971年7月、アメリカ政府は政治的判断からラオス領内での空爆・航空支援の削減を開始し、戦況は共産軍に有利となる。

▲ラオス戦争におけるアメリカ空軍による空爆地点のマップ
この空爆地点は即ちラオスに侵攻した北ベトナム軍の活動範囲を意味する。軍事力で劣るラオス政府にとっては、このアメリカによる航空支援が国家防衛の頼みの綱であった。

1972年10月、ラオス政府とパテートラーオとの間で停戦交渉が開始され、パテートラーオは停戦の条件としてCIA指揮下の不正規部隊(SGU)の解体を求める。これを受けてラオス政府はSGUを温存する為の方便として11月に全てのSGUをLIF(ラオス不正規軍)へと改称し、外国の指揮下ではなくあくまでラオス政府軍の一部であると強調する。
1973年2月22日、北ベトナム軍がラオス領内の広い地域を支配したまま、ラオス政府とパテートラーオ間で停戦が発効。



停戦期

停戦発効を機に、アメリカ政府はラオス戦争からの段階的な撤退を開始する。
ラオス政府とCIAは、実質的にラオス王国軍の主力となっていたLIF(旧SGU)を温存するため、1973年2月にLIFを陸軍の正規部隊へと昇格させ、陸軍第1および第2打撃師団へと改編する。同時にGM(機動群)はRI(歩兵連隊)へ、BG(戦士大隊)はBI(歩兵大隊)へと改称される。
この際、元々存在していた王国軍=多数派民族ラオ・ルム人からなる陸軍第1および第2打撃師団は動員が解除され解散し、ラオス陸軍は新生(LIF)打撃師団2個、王国軍打撃師団2個の計4個師団に再編される。
なお、LIFに所属していたタイ人民兵もラオス陸軍に編入されたが、停戦を受けてタイ兵はラオスに駐留する意義を失い、兵士の自主的な逃亡およびタイ政府による正式な撤退が開始される。
1972年12月~1973年12月 LIF第4軍管区強襲コマンドが北ベトナム領に潜入して電話線に盗聴器を設置するCIA主導の諜報作戦を断続的に実施。1年間かけて盗聴網が完成。
1973年3月~5月 LIF第3軍管区強襲コマンドの後継として生まれたロードウゥッチ部隊「タメオ」が、パリ協定に違反して南ベトナムに進軍する北ベトナム軍を撮影。
1973年8月 停戦に反対するラオス王国軍のタオ・マー空軍准将が軍事クーデターを行うが失敗し、逆にクーデターに参加した王国軍正規師団2個はラオス政府によって解体される。
1973年8月~10月 停戦協定に基づき、中立地帯に指定された王都ルアンパバーンと首都ビエンチャンにパテートラーオ軍が進駐。
1974年前半 ラオス・アメリカ政府はラオス政府軍の再建を試み、軍の質を確保するため精鋭部隊のみを温存し、その他の兵力の大幅削減を開始する。
1974年4月 右派・左派連立の国民連合臨時政府(PGNU)が成立。ラオスの国土は右派・左派がそれぞれの支配地域を分割統治する事となる。
1974年5月 ラオスに駐留していた最後のタイ人部隊が帰国し、ユニティ・プログラムは終了する。ユニティ・プログラムにおけるタイ人民兵の死者行方不明者は累計2,487名に上った。
1974年6月 在ラオス米軍人およびCIAのほとんどが出国し、アメリカ政府のラオスへの関与が終了する。


戦闘再開、そして終わりの時

1974年9月 パテートラーオ軍はスワンナプーマ首相が病気治療のためフランスに出国したのを見計らってラオス北西部で右派(王国政府)支配地域への侵攻を開始。右派軍も反撃を開始し、ラオス戦争が再開する。
同月 LIFの複数の部隊が、王国軍からの給料未払いと差別的な扱いに反発して反乱を起こす。王国軍は武力による反乱鎮圧を用意するが、最終的に交渉によって反乱は終息する。
1975年4月 共産軍が第2軍管区本部ロンチェンを攻撃。王国軍空軍による航空支援によりロンチェン防衛に成功。
1975年5月 カンボジア、南ベトナムにおける共産勢力勝利の勢いに乗り、北ベトナムおよびパテートラーオが最後の大攻勢を開始。同時にスワンナプーマ首相は和平(事実上の降伏)を選択し、右派将官の解任・辞任により王国軍は崩壊する。
5月5日 北ベトナム軍機甲部隊がロンチェン攻略を開始。
5月10日 ヴァン・パオ将軍が第2軍管区司令から更迭される。
5月14日までにヴァン・パオ将軍を含む数千人のモン族が輸送機でロンチェンからタイ領に脱出。輸送機に乗れなかった約1万4000人のモン族がロンチェンに取り残され難民となる。
5月18日 第4軍管区本部パクセー陥落。
5月22日 兵士の消えたロンチェンにパテートラーオ軍が入城。
1975年6月 旧王国政府の要人のほとんどがラオスから脱出。
1975年8月 首都ビエンチャンでパテートラーオ軍が戦勝パレード。ラオス戦争の終結が宣言される。
1975年12月 パテートラーオは正式に連合政府の消滅と、共産主義政府の成立を宣言。
以後ラオスはベトナム社会主義共和国の衛星国としてベトナム共産党の強い統制の下、今日に至る。


関連記事


参考文献
  


2024年05月30日

エラーパッチ

※2024年6月1日更新
※2024年6月8日更新

ベトナム戦争期のベトナム共和国軍の部隊パッチの多くはシルク織り(所謂BEVO織り)製であり、機械で自動的に大量生産された物でした。
そしてこれらの中には稀に、貨幣のエラーコイン・エラー紙幣のように、エラー品のパッチが混入していたことが国内外のコレクターの方々が公開している情報から確認できます。
今回はそうしたエラーパッチの例を紹介いたします。(画像は全て引用です)

画像は左が正常、右がエラー品です。


①陸軍レンジャー部隊(Dennis Kim氏コレクション)


見ての通り、完全に黒い糸が無くなっています。糸を機械にセットし忘れたか、織り出し中に糸が途切れてしまったようです。顔面蒼白でちょっと怖いです。



②海兵隊2ndタイプ(阮空挺氏コレクション)


こちらは黄色い糸がありません。
このパッチは実際に軍服に縫い付けられ着用されている例が確認されています。

▲1972年フエ



③陸軍第81空挺コマンド群(出典不詳)


このパッチは糸の入れ忘れではなく、黒と赤の糸を逆に機械にセットしてしまったようです。
このエラーパッチの画像はずいぶん昔からネット上で広まっており、一部のマニアがこれを実在する正式なデザインだと勘違いして紹介している例も見た事があります。

国家が細心の注意を払って作る貨幣ですらエラー品が出回るのですから、戦時中の軍隊のパッチでこのようなミスが発生する事自体は驚くに値しないでしょう。
ただし、元々エラー品だけあって現存するエラーパッチは極めて少ないので、これはこれで貴重な資料の一つと言えるかもしれません。
  


2024年05月20日

ラオス戦争におけるCIA不正規少数民族部隊の略史②1970~1973年

※2024年5月21日更新
※2024年5月22日更新
※2024年7月7日更新


【1960年代のまとめ】
ビエンチャンの中央政府が右派・左派・中立派とで連合と分裂を繰り返す中、北ベトナムは「ラオス解放勢力(パテートラーオ)からの要請に応じてラオス人民を解放するため」と称し、ラオスへの軍事侵攻を本格化させ、1960年代半ばには共産軍の主力は北ベトナム軍となる。
これに対抗してアメリカCIA・タイ政府はラオス王国政府を支援するため、ラオス領内の少数民族(モン族、ラオ・トゥン人、ラオ・スーン人)を王国政府側の不正規部隊として武装化。
ラオス王国軍正規部隊(多数派民族のラオ・ルム人)は主要都市の防衛に終始したため、主戦場となった田園・山岳地帯でのラオス王国軍の主力はCIAが指揮する不正規部隊となる。
またこれを支援するため、アメリカ軍は強力な航空支援を提供し、タイ軍は秘密裏に陸軍部隊をラオスに派遣する。


【略語】
SGU: 特別遊撃隊。少数民族不正規部隊の基本編成である軽歩兵部隊。SGUがBGに改称された後も、不正規部隊の総称としてSGUという名称は使われ続ける。
BG: 戦士大隊。1967年以降、SGUは順次BGに改称される。
GM: 機動群。3~4個のSGU/BG大隊からなる連隊。
BC: コマンド大隊。ユニティ・プログラムでタイから派遣されたタイ人民兵の軽歩兵大隊。
BA: 砲兵大隊。同じくユニティ・プログラムでタイから派遣されたタイ人の砲兵大隊。



第1軍管区

1971年2月 北ベトナム軍が王宮のあるルアンパバーンを包囲。王国軍部隊の増援により戦線は膠着する。
1971年3月~6月 北ベトナム軍によるルアンパバーン攻撃。王宮防衛のため、第1軍管区の王国軍・民兵部隊に加えて第3軍管区の王国軍および民兵部隊がルアンパバーンへ集結し、全力で抗戦した事で北ベトナム軍は撤退する。
1971年12月~1972年1月 ラオス北西部に侵入してメコン川沿いに道路建設を進める中国人民解放軍により、ラオス航空、エア・アメリカの航空機3機が立て続けに撃墜される。しかし米国政府は中国軍の全面侵攻を危惧して報復行動を避ける。しかし第1軍管区タイ人BCを指揮するタイ軍のピチット少佐は米国の意思を無視して中国軍に砲撃を行う。
1972年1月~6月 共産軍がラオス北西部メコン川東岸の奪取に動き、ピチット少佐麾下のタイ人BCを包囲する。最終的にBCはタイ国境警備警察PARU、タイ陸軍特殊部隊、そしてタイ領内のタイ陸軍正規部隊の援護を受けて包囲から脱出する事に成功する。
1972年11月~1973年2月 パテートラーオ軍が第1軍管区の不正規戦本拠地ナムユに対し攻勢をかける。ラオ・トゥン人GM、タイ人BCが抵抗するが最終的に基地は陥落する。  
1972年12月~1973年2月 パテートラオ軍の攻勢に対抗し王国軍正規部隊が「マハラットII作戦」実施。 第2軍管区ヴァン・パオ戦闘団および第3軍管区GMが増援として派遣され、パテートラオ軍の撃退に成功。



第2軍管区

1969年11月~1970年4月 北ベトナム軍がジャール平原に対する大規模攻勢「第139戦役」を実施。
1970年2月 米空軍、北ベトナム軍の攻勢を抑えるためラオス領内で初のB-52爆撃機による絨毯爆撃開始。
同月 第2軍管区モン族強襲コマンドによる北ベトナム領ディエンビエンフーへの越境攻撃実施。北ベトナム軍の師団司令部をロケット弾で砲撃。
1970年3月 第2軍管区本部ロンチェンに北ベトナム軍が迫り、陥落の危機に陥る。ロンチェン駐在CIA職員は史上初の非常事態宣言「アードウルフ」を発令し、機密書類・暗号の焼却を開始。
タイ陸軍砲兵大隊「特別要件9」および他の全ての軍管区(第1、3、4軍管区)のSGU大隊が増援として続々とロンチェンに到着。
ロンチェン防衛のため、米空軍が戦闘目的としては初めて大型スラリー爆弾BLU-82を北ベトナム軍に投下。
同月 SGUにアメリカ製のM16ライフル配備開始。
同月末 増援を得たヴァン・パオは反撃を行い、ジャール平原内のほぼ全ての重要拠点から北ベトナム軍を駆逐する事に成功。
1970年4月 新たにタイ陸軍5個大隊(歩兵3個大隊・砲兵2個大隊)がラオスに派遣され、ヴァン・パオ将軍直属の「ヴァン・パオ戦闘団」として第2軍管区に配備。
1970年4月~5月 ブアムロンを北ベトナム軍が急襲。モン族ADCおよび第4軍管区SGUが辛くも防衛に成功。
1970年5月 モン族強襲コマンド北ベトナム領ムウンセンへの越境攻撃中に北ベトナム軍の反撃を受け全滅。
1970年7月~10月 再度モン族強襲コマンドによるムウンセンへの越境攻撃実施戦車4両、トラック6両、パテートラーオ軍ラジオ放送局の破壊に成功。
1970年8月~11月 モン族GMおよびタイ軍によるバンナー、ムンスーイ攻略戦実施。ムンスーイの占領に成功。
1970年11月~1971年1月 モン族強襲コマンドおよびGMによる「カウンターパンチIII作戦」実施。北ベトナム軍の反撃にあい作戦失敗。
1971年2月 北ベトナム軍が第2軍管区本部ロンチェンへの攻勢「74B戦役」を開始。
同月 航空支援のため飛来した米空軍のF-4戦闘機がロンチェンの第2軍管区本部をクラスター爆弾で誤爆。
1971年3月 ユニティ・プログラムで編成されたタイ人民兵BC(コマンド大隊)から成る「シンハー戦闘団およびタイ人BA(砲兵大隊)が増援としてロンチェンに到着。
1971年4月 米空軍のF-4戦闘機がシンハー戦闘団のタイ人BCを誤爆。以後、誤爆を防ぐために全てのBCにタイ空軍ウドン基地で訓練を受けたタイ人FAG(前線航空誘導員)が配置される。
同月 北ベトナム軍は74B戦役を中止して北ベトナム領に撤退する。
1971年5月 ヴァン・パオ戦闘団のタイ陸軍部隊が派遣期間を終えて帰国。代わってタイ人BCから成るシンハー戦闘団ヴァン・パオ戦闘団に改称される。
1971年6月 モン族GMがジャール平原南西部の北ベトナム軍を攻撃、退却に追い込むことに成功。
1971年7月 米国政府がラオスにおける空爆・航空支援の削減を開始。
1971年7月~9月 モン族BG・タイ人BCによるジャール平原制圧作戦が実施され一定の成果を上げるが、北ベトナム軍を完全に駆逐する事は出来ずに作戦は終了する。
1971年8月 モン族各部族長らは在ラオス米国大使館に対し、航空支援を再開しない場合モン族はアメリカ・ラオス政府への協力を放棄してタイ領へ集団脱出すると抗議。
1971年11月~12月 航空支援の打ち切りによりモン族将兵の多くがアメリカに見捨てられたと考え、士気を失う。現実逃避のためモン族の将校たちは前線部隊を離れてロンチェンで新年の祭りを1か月繰り上げて開催し、指揮官不在となった前線部隊の士気はさらに低下する。
1971年12月 北ベトナム軍が史上最大規模の攻勢「Z戦役」を開始。ロンチェンは砲撃や戦闘工兵の侵入を受け、陥落の危機に陥る。またヴァン・パオ将軍やCIA顧問が抗戦を呼びかけるが、モン族将兵の多くがほとんど抵抗する事なく逃亡する。モン族に代わってタイ人BCが第2軍管区の主力として抗戦する。
1971年12月~1972年1月 タイ領内から追加のBC、ならびに第3軍管区GM、第1軍管区BGが増援としてロンチェンに到着。ヴァン・パオ戦闘団は12個大隊に拡充し、辛くもロンチェン防衛に成功する。
1972年1月~3月 ヴァン・パオはCIAの反対を押し切り北ベトナム軍への反攻作戦を実施。モン族兵も軍事作戦に復帰したが、ロンチェン周辺から北ベトナム軍を排除する事には失敗する。
1972年3月 北ベトナム軍は再びロンチェンを砲撃。またサムトンは機甲部隊の攻撃を受け陥落する。
1972年3月~4月 ヴァン・パオは再び反攻作戦を開始するが、第2軍管区に増援として派遣されていた第3軍管区GMの一部が当初の予定を過ぎても郷里に帰れない事から反乱を起こし脱走する。一方北ベトナム軍もロンチェン攻略を目指し、ヴァン・パオ戦闘団(タイ人部隊)との攻防が続く。最終的に北ベトナム軍部隊が全滅し、ロンチェンは防衛される。
1972年4月~7月 ヴァン・パオはモン族部隊の再建を行い、また第3軍管区GMも再度ヴァン・パオの下に派遣され、再び北ベトナム軍への攻撃を行う。攻防が繰り返されるが戦線は膠着状態が続く。
1972年7月~11月 米国ニクソン大統領の意向によりジャール平原の掃討を目指す第1・2・3軍管区不正規部隊合同の大規模攻勢「プーピアンII作戦」実施。しかし北ベトナム軍の反撃により多くの犠牲を出し作戦は失敗に終わる。
1972年11月 ロンチェンにタイ人部隊が増派され、3つのタイ人GMが編成。モン族GMと合同でプーファサイを攻撃するも攻略に失敗。
1973年1月 北ベトナム軍によるジャール平原北部ブアムロンへの攻撃を緩和させるため、ヴァン・パオはムンスーイ奪還を目指す「プーピアンIII作戦」を実施するが、成果を上げることなくブアムロンが陥落。作戦は終了。



第3軍管区および第4軍管区

1970年 第3および第4軍管区強襲コマンド(コマンドレイダース)が北ベトナム領、カンボジア領内への越境破壊工作作戦を複数回実施。北ベトナム領内の北ベトナム軍訓練キャンプや、パテートラーオ軍に供与されるT-34戦車等を破壊。
1970年前半 第3軍管区SGUはヴァン・パオを支援するため第2軍管区に派遣される。
1970年4月~12月 カンボジアでのクーデター(ロンノル政権成立)により北ベトナムはカンボジア領内のホーチミン・トレイルを失ったため、ラオス領内のホーチミン・トレイルを拡大するため第4軍管区への攻撃を激化第4軍管区SGUは第1、第3軍管区SGUの増援を受け、辛くも北ベトナム軍を撃退する。
1970年6月 第3軍管区SGUが第2軍管区への支援から帰還。
同月 第3軍管区SGUは第3軍管区内のホーチミン・トレイル攻撃を担当する主力部隊と、他の軍管区への増援に割り当てられる「第1機動群」に再編される。
1970年7月 第3軍管区SGUによるチュポーン攻略が失敗。第1機動群は全滅。
1970年9月 CIAがクメール共和国(カンボジア)軍のラオス派遣計画「プロジェクト・カッパー」を開始。クメール陸軍2個大隊がラオス第3軍管区に展開開始。
1970年9月~11月 再度チュポーン攻略を目指すチュポーン作戦」実施。作戦は成功する。
1970年12月 第3軍管区SGUは第2軍管区と同じくBGに再編成される。
同月 タイ領内での訓練を終えたタイ人民兵がラオス第4軍管区に展開開始。タイ人部隊はBCとしてラオス王国軍部隊に組み入れられる。
1971年1月 クメール軍大隊が増援として第4軍管区ボロベン高原へ派遣されるが敗退。ラオス領内で訓練中のクメール兵も反乱を起こしたため、ラオス派遣クメール軍は一旦全て帰国する事となる。
同月 北ベトナム軍が第4軍管区ホエイサイを攻撃するも、タイ人BCが防衛に成功。
同月 第3軍管区の各BGを再編した連隊規模のGM(機動群)が5つ編成される。
1971年1月~3月 南ベトナム軍の「ラムソン719作戦」に呼応して第3軍管区GMによる「シルバーバックル作戦」および「デザートラット作戦」実施。デザートラット作戦は北ベトナム軍の通行を阻害し一定の成果を上げたが、南ベトナム軍が敗退した事よって北ベトナム軍による攻撃がGMに集中したため、GMも撤退する。
1971年2月 新たなラオス派遣部隊として南ベトナム領内での訓練を終えたクメール軍第15旅団がラオス第3、第4軍管区に展開。ボロベン高原の一部奪還に成功する。
1971年3月 北ベトナム軍の攻撃を受けボロベン高原内の三つの拠点が陥落する。
1971年4月 第3軍管区強襲コマンドが北ベトナム軍の待ち伏せ攻撃を受け全滅する。
1971年5月~6月  ボロベン高原をめぐる戦いでタイ人BC1個大隊が全滅するも、航空支援を受けてラオス王国軍側が勝利。
1971年5月~9月 ラオス王国軍・第3軍管区GM合同の「プータ作戦」実施。攻防が続いたが、成果が上がらないまま作戦は終了する。
1971年6月 CIAはクメール軍派遣の成果を不十分と見做し、プロジェクト・カッパーを終了する。
1971年7月~10月 第3軍管区GM・第4軍管区BG・王国軍・中立派軍・タイ人BAからなる「パスーク戦闘団」がサヤシラを攻略。
1971年11月 サラバネ奪還を目指す第3軍管区・第4軍管区GM合同の「タオラー作戦」実施。北ベトナム軍機甲部隊の反攻にあい作戦は失敗に終わる。
1971年12月~1972年2月 北ベトナム軍の「Z戦役」攻勢。第4軍管区GMおよびタイ海兵隊員からなるBCが抗戦するが、GM1個連隊が全滅。BCも退却する。
1972年2月 第2軍管区への増援のため、第4軍管区BCがロンチェンに派遣される。
同月 CIAは強襲コマンドプログラムを成功とは判断せず、計画は終了する。
1972年3月~4月 国道23号をめぐる戦いで第3軍管区GMが第4軍管区に派遣される。第4軍管区GMは一定の成果を上げたが、長期の派遣で士気の下がった第3軍管区GM将兵は逃亡・反乱を開始したため、第3軍管区GMは送還される。
1972年6月~10月 国道23号奪還を目指す第3軍管区・第4軍管区合同の「ブラックライオン作戦」実施。北ベトナム軍の抵抗で成果は限定的に終わる。
1972年10月~1973年2月 第3軍管区・第4軍管区GMによる反攻作戦により北ベトナム軍の一部が撤退。
1972年11月~1973年2月 ターケークにおいて北ベトナム軍の攻勢にあう王国軍正規部隊への増援として第3軍管区GMが派遣され、北ベトナム軍の撃退に成功。


タイ領内

1970年 ノンタクー、ナムプンダムにラオス不正規部隊訓練センター設置
1970年9月 CIAがカンボジア国境沿いに住むタイ人を民兵としてラオスに派遣する「ユニティ・プログラム」を開始。
1971年 ユニティ・プログラムにおけるラオス派遣タイ民兵訓練センターがカンチャナブリに移転
1971年後半 ユニティ・プログラムにタイ人民間パイロットが操縦する武装ヘリ部隊計画が追加。パイロットは南ベトナムで飛行訓練を受けた後、米陸軍からロケットポッドおよびミニガン搭載のUH-1ヘリ10機が供与され、ラオス空軍所属機としてタイ空軍ウドン基地に配備。連日ラオス第2軍管区や第4軍管区への航空支援に出撃する。


つづく

  


2024年05月02日

ラオス戦争におけるCIA不正規少数民族部隊の略史①1960年代

※2024年5月11日更新
2024年5月19日更新
2024年7月7日更新
2025年2月9日更新

ラオス戦争は「CIA秘密戦争」というフレーズだけが独り歩きしていて、その実態をちゃんと分かっている人は少ないんじゃないかと思います。
そもそも「秘密」というのは、アメリカが民主主義国家であるのにも関わらずCIAが独自の判断でアメリカ国民の支持を得ぬままラオスに介入していた部分を問題視している文言であって、当のラオス国民にとって戦争は毎日自分の住む町で起こっている事であり、秘密でも何でもありません。
また、この戦争は一般には「ラオス内戦」と呼ばれますが、実際には1960年代後半以降、共産軍の戦力の大半はラオスに越境侵入した北ベトナム軍であり、そこに米軍、タイ軍も参戦しているので、実際にはとても大規模な国際紛争でした。

その中で、ラオス戦争ではCIAがラオス領内に住むモン族をラオス王国政府軍側の兵士として動員した話が割と有名なので、今回はモン族以外も含む、CIAとタイ政府が行った不正規少数民族民兵計画の略史をまとめました。


前段階
1950年 米国CIAがタイ王国にてタイ警察と共同で共産主義勢力への対抗プロジェクトを開始。(当初は中国共産党によるタイ共産党への支援阻止が目的)
1951年 CIAの指導の下、タイ警察内にBPP(国境警備警察)が創設される。
1958年 BPP内で選抜されたコマンド隊員からなる特殊部隊PARU(警察航空増援部隊)が発足。
1960年8月 ラオスで軍事クーデター発生。政権を握った中立派は共産軍と同盟し、ラオスに親共政権が誕生。タイ政府は政権を追われたラオス右派(王国軍)を支援する工作機関「コートー(ラオス支援タイ委員会)」を発足。
1960年12月 王国軍が首都ビエンチャンを奪還。
1961年1月  王国軍を増強するため、ラオス領内の民間人(少数民族)を民兵として戦力化するCIAとPARUの合同プロジェクト開始。


▲ラオスに展開する米国CIAエージェントとタイ国境警備警察PARU隊員



ラオス第1軍管区
1962年1月 CIAおよびPARUが第1軍管区西部で少数民族民兵の組織化を開始。
しかし1962年7月を過ぎても民兵を十分に集める事は出来ず、計画は中止となる。
1965年2月 第1軍管区西部でタイ陸軍特殊部隊を中心に少数民族民兵作戦が再開。ラオ・スーン人(高地ラオ人)ADC(襲撃自衛)2個中隊、モン族ADC3個中隊が発足。
1965年6月 ADC中隊を統合して第1軍管区第1SGU(特別遊撃隊)大隊発足。
1965年後半 部隊内での民族間の不和により第1SGU大隊は解散。
1966年初頭 第1軍管区北西部のミエン族がCIAの作戦に参加。
1966年中旬~1967年末 ミエン族の潜入チーム「フォックス」が中国領内に複数回潜入し、中国人民解放軍の電話線に盗聴器を設置。
1966年末 第1軍管区内に東部の民兵を統括するFG/E(東部遊撃軍)、西部を統括するFG/NW(北西部遊撃軍)発足。
1967年前半 ルアンパバーンにてFG/E内にラオ・トゥン人(オーストロネシア語族諸部族)からなるSGU大隊発足。
同年 FG/EのSGUはナンバックでの戦いに大敗して第1SGU大隊および民兵計画全体が瓦解する。
1968年後半 民兵計画再建のためFG/E内に第1SGU大隊および第12SGU大隊(後に第2SGU大隊に改称)が新設される。
1969年後半 FG/EのSGUはヴァン・パオの部隊を支援するため第2軍管区に派遣される。


ラオス第2軍管区
1961年1月 CIAおよびPARUがラオス王国軍所属のモン族将校ヴァン・パオと協力体制を構築。
ラオス北部におけるモン族民兵計画「モメンタム・プロジェクト」始動。
以後CIAとPARUが指揮するモン族民兵部隊ADC(襲撃自衛)中隊が順次編成される。
後にアメリカ陸軍特殊部隊グリーンベレーモメンタム・プロジェクトへ参加。
1961年4月 タイ陸軍砲兵大隊「特別要件1」が秘密裏にラオス第2軍管区に展開。
1961年12月 ADCから選抜されたモン族コマンド部隊SOT(特殊作戦チーム)発足。
1962年2月 ADCを機動打撃部隊として発展させたSGU(特別遊撃隊)中隊発足。
1962年末 ヴァン・パオは司令部をロンチェンに移動し、以後ロンチェンがモン族軍の本拠地となる。
1962年12月 ロンチェンにてSGUを大隊規模に拡大した第1SGU大隊創設。
1964年 ラオス北部のモン族と南部のラオ・トゥン人との連携強化を目的とし、モン族・ラオ・トゥン合同の第2SGU大隊創設。
1965年2月 ヴァン・パオが第2軍管区司令に就任。
1965年10月 第2軍管区モン族部隊(SGUおよびADC)がホエイサアンを占領する北ベトナム軍を撃破。弾薬2トン、食料55トンを接収。
同年 タイ陸軍がロンチェンにてモン族将校への指揮幕僚教育を開始。
1966年1月 第2軍管区にタイ兵からなるロードウォッチチーム発足。
1966年1月までに5個のSGU大隊が発足。
1966年2月 ナカンでの作戦中にヴァン・パオが狙撃され、以後4月までタイおよび米国ハワイで治療。
同年 ノンカイにてタイ人パイロットを教官とするモン族のパイロット養成学校が開校。卒業者はラオス空軍T-28攻撃機パイロットとして第2軍管区での近接航空支援任務に従事。
1967年 モン族SGUがナカン、サムヌアでの作戦で相次いで勝利。
同年 モン族の各SGU大隊はBG(戦士大隊)に改称。また3つのBGから成る連隊規模のGM(機動群)発足。
1967年10月~1968年6月 プーパティをめぐりモン族GM21と北ベトナム軍の激戦。ヴァン・パオはCIAの反対を押し切り「ピッグファット作戦」を実施。最終的にヴァン・パオはプーパティ占領に失敗し大損害を負う。
1969年3月 北ベトナム軍の攻勢を受けナカンが陥落。
1969年3月~5月 シエンクアンビル渓谷をめぐる戦い。一時ラオス王国軍がシエンクアンビルを占領するが、北ベトナム軍の反攻にあい撤退。
1969年7月 タイ空軍ウドン基地で訓練を終えたモン族パイロット2期生がラオス空軍T-28攻撃機部隊として第2軍管区に実戦配備。
1969年7月~10月 ヴァン・パオ「コウキェット作戦」を発動しジャール平原全域の制圧に成功。共産軍から小火器6400丁、弾薬600万発、戦車25輌、車両113輌、燃料20万2000ガロン、その他大量の食糧を奪取する。
1969年8月 タイ領内のフィッツキャンプで訓練を受けたモン族コマンド隊員から成る第2軍管区強襲コマンド(コマンド・レイダース)発足。

▲王党派モン族の軍事指導者ヴァン・パオ将軍


ラオス第3軍管区および第4軍管区
1961年11月 第4軍管区にてCIAおよびグリーンベレーによるラオ・トゥン人(オーストロネシア語族諸部族)民兵計画「ピンクッション・プログラム」開始。ホーチミン・トレイルを通行する北ベトナム軍を偵察・監視するロードウォッチチームを編成。
1962年9月 ラオス連立政権成立による一時的な和平ならびにラオス政府がラオ・トゥン人の武装化に難色を示したためピンクッション・プログラムは終了。ラオ・トゥン人部隊は解散する。
1962年11月 CIAが第3および第4軍管区にてラオ・トゥン人部隊によるロードウォッチ作戦を再開。
1963年1月 ラオ・トゥン人部隊は「ハードノーズ作戦」として正式に承認される。この作戦からタイ陸軍特殊部隊がラオスで活動開始。
1966年中旬 CIAが南ベトナム領内で募兵したヌン族傭兵をコマンド部隊としてボロベン高原東部に配置。(ただし在越米軍が精鋭のヌン族兵の提供を拒否したため、CIAはチョロンで従軍経験の無い素人のヌン族を雇わざるを得なかった)
同年 ヌン族部隊は一定の成果を上げたが、CIAはラオスにおけるヌン族コマンド計画の中止を決定する。
1967年1月 ラオ・トゥン人コマンドチーム「コブラ」がパテートラーオ軍の捕虜収容所バンナデンを襲撃。PARU隊員を含む80名以上の捕虜の救出に成功する。
1967年3月 パクセーにてラオ・トゥン人からなる第4軍管区第1SGU大隊発足。
1967年7月 ノンサフォンにて第3軍管区第1SGU大隊発足。
1967年 ローウォッチ専用の新型無線機ハークを使用した「ハーク計画」開始。ラオ・トゥン人ロードウォッチチームによる常時監視が行われる。
1967年12月 南ベトナムにおけるテト攻勢の陽動として北ベトナム軍がラオス南部で攻勢を開始。
1968年 第4軍管区内に守備隊として3個のGB(遊撃大隊)発足。
同年 第4軍管区内に3つのGZ(遊撃区)が設定される。各GZにはSGU1個大隊、GB2個大隊が配置される。
1969年初頭 第3軍管区第1SGU大隊が5つの小規模なSGU大隊に分割。
1969年 空中投下型通行監視センサーの普及および航空機の暗視装置が進化した事によりローウォッチの重要性が低下し、ハーク計画は終了。
1969年9月 第3軍管区SGUによる「ジャンクションシティジュニア作戦」実施。一時SGUがムウンピネを奪還するが、北ベトナム軍の反攻に遭い撤退。
1969年8月 タイ領内のフィッツキャンプで訓練を受けたコマンド隊員から成る第3軍管区強襲コマンド(コマンド・レイダース)発足。
1969年9月~10月 第4軍管区SGUおよびGBによる「ダイヤモンドアロー作戦」実施。失敗に終わる。


タイ領内
1962年後半 CIAがピッサヌローク郊外にラオス民兵コマンド訓練センター「フィッツキャンプ」創設。
1963年 CIAがタイ空軍ウドン基地(現ウドーンターニー国際空港)内にラオスにおける作戦の総司令部「第4802統合連絡分遣隊」を設置。
同年 CIAがタイ空軍タフリ基地内にラオス不正規戦兵站センター「ソルトシェイカー」設置。
同年 タイ政府のコートー(ラオス支援タイ委員会)は「第333司令部」へと改称。


つづく→ラオス戦争におけるCIA不正規少数民族部隊の略史②1970~1973年